2016年8月18日 第34号
イラスト共に片桐 貞夫
不明なことだらけであるが訊くわけにはいかない。タケは、無知でしがない盲の餅売り女でしかないし、うっかり訊き過ぎれば疑いをもたれる。疑いをもたれれば元も子もなくなることは明らかであった。ただ一つ、近江屋と、辰蔵一家がなんらかの関係で結ばれていることだけは分かってきた。
小田原なまりが餅をほおばりながら言った。
「よっ、もう二枚え焼いてくれ」
「えっ、もう二枚、…食べるんですか」
タケが訊いた。
「持ってくんだ。…おっと、三枚えだ。三枚えーにしてくれ。いっちゃんのことを忘れてたぜ。あんなちびでも一人前えに食うからな」
「そうだな。けんど、いっちゃんは食うだろうけど姉さんがこんなもん食うかえ」
瀬谷の百姓なまりが口を添えた。
「いや食う。姉さんは意外とこういうもんが好きなんだよ。いつも京楽屋ばりの馳走ばっかり食ってると、こういうもんを食いたくなるらしいんだ」
「そういうもんけ」
二人が餅をほおばりうなずきあっている。タケは一言も聞き逃すまいと全身を耳にしていた。
三枚の餅ということは三人いるということである。「いっちゃん」とは養子であろう、小さい子供であることが判る。しかし「あねさん」とは誰か。誰の姉か。そして三枚目の餅を食う者とは一体だれなんだろう。
タケははったりを掛けてみた。
「わかりんした。いっちゃんのぶんと大奥のぶん。…じゃ二枚じゃないの。二枚でいいんしょ、二枚で」
「いいんだよ。おめえは黙って三枚え焼きゃあ」
かまをかけ、タケが「あねさん」を「大奥」と呼んだのに対し、小田原なまりは否定しない。
「あおおやぶんは、あれで甘えーもんが好きだかんなー」
タケの全身を雷電が貫いた。百姓なまりが聞きすてならない語音を口にしたのだ。「あかおやぶん」はリュウから聞いたことがある。最近、ほほを斬られて殺された立願寺の辰蔵なのだ。しかしそれは「あかおやぶん」であって「あおおやぶん」ではない。タケは、はっきりと百姓なまりが言った「あおおやぶん」を聞き取ったのだ。「あねさん」は近江屋の女主人シズノに間違いなく、「いっちゃん」とは四つになるシズノの養子に違いなかった。そして、この近江屋には「あおおやぶん」という「親分」がひそかに待機して、このさんぴん二人と幽霊女が出てくるのを待っているのだ。
タケは、一刻も早くリュウに知らせなければならないことを思うのであった。
五、
明福寺の鐘が二度ほど鳴って夕暮れがきた。その日も静かな夕焼けであった。日輪はまだ矢部の山上にあるが、真っ赤に色を変えて西の空を焦がしていた。
「他国といっても遠州だ。箱根の山のすぐ向こう側だ。またすぐに会えるよ」
たばこ売りの金次が背箱を担いだまま立っている。近江屋の土塀を背にしてタケに別れを言っている。
「どうして? どうして」
タケの声が泣いている。
「どうして急に? どうしてなの。金次さん、身内も知り合いもいないって言ってたじゃない」
なぜか金次が遠州に行かねばならなくなったと言っている。遠州はすぐ隣の国とはいえ、盲のタケにとっては遠い地の果て。それは今生の別れともとれた。
「どうして…ううう…」
「タケさん、タケさんのことは忘れないよ。金つばの味も忘れない。どうしても行かなくちゃあならなくなったんだ」
「いや、いや」
タケはぼろ布を出して涙をおさえている。
金つば餅を食べてしまうのがもったいなく、のどを通せないほどの貧困に生きてきた金次。幼い時、母親に喉を刺され、不遇な逆境に耐えてきた金次。タケは時をかけ、励ましあっていたわり合える生涯の友として親交していくことを思っていた。いつの間にか金次の存在は、タケの中で、幼くして死に別れた弟となっていたのだ。
「きんじさん、・うう・きんじさん、おねがい…おねがい、きんじさん」
(続く)
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