2016年8月4日 第32号

 

イラスト共に片桐 貞夫

 

 近江屋への探りの手をゆるめない定吉は、リュウへのこの報告から戻ってくるとタケに言った。

「もうやめようぜ。あの近江屋の裏はいくねえ。どうもあの幽霊がでたらめとは思えねえんだ。物騒なことがおこりそうな気がしてならねえんだよ」

「わかったわ」

 タケがにっこりとうなずいた。

「また幽霊が出たのね。別なところを探してちょうだい。でも今日、やめるっていうわけにはいかないわ。来てくれるお客さんにあいさつしな

くっちゃあいけないし。新しい場所が分かってからがいいわ。二、三日待ってちょうだい」 どうやらタケは幽霊におびえている様子を見せない。

 タケが移転を遅らせたいのは、たばこ売りの金次のことを思ってであるが、理由はそれだけでなかった。

 短刀を持った幽霊が出たという晩の翌日、つまり昨日、タケの屋台に新客があった。よけいな心配をかけまいと定吉には言ってないが、見慣れぬやくざ者と思われる二人の男が、近江屋の裏口から出てきて金つばを食い、うまいと言って明日、つまり今日も来ると言ったのであった。

 近江屋の裏のくぐり戸が開いたのは九つを半分過ぎたころ(午後一時)、生駒湯の拍子木がかんかん鳴ってからすぐであった。二人の男はくぐり戸を出るや、そろって放尿の音をさせると、タケの屋台のほうに歩いてきた。草履の音で、きのうの二人とタケに判った。

「よっ、おれたちだ昨日のよ」

 小田原なまりの男のほうが低い声で言った。

「またたのむぜ、こんがりとな」

 盲目のやけど面への揶揄は昨日、終わっている。ゴマ入りの武州名物金つばは、その香りをより引き立てるため、弱火で時間をかけて焼くということもきのう話した。

「はいはいはい。じゃ、二人分ね。火の用意からはじめましょうね」

 タケはにっこりと笑顔をつくって火壺を開けた。

「火の強さがかんじんのかんよ」

「あああ、たのんだぜ、ゆっくーりでいいんだ。急ぐことなんかなーんにもありゃあしねえんだから。あああ」

 二人はあくびをしいしい言っている。さいわいのことに声は低いが口が軽い。

「まったくだまったくだ」

 もう一つの声が相槌をうった。

「こんな真昼間にゃー出やしねえ。丑の三つ(午前二時)まではすんことがなーんにもありゃしねえんだ」

 この男の口舌には阿久和か瀬谷の百姓なまりがある。

「いやですねえ、うしの三つだなんて、おばけじゃああるまいし」

 タケがとぼけた声を出した。 「ところがそうなんだ。へっへっへっ、おばけよ。おれたちゃーおばけ退治にやってきたんだよ。…はっはっはっ、おばけ退治によ…へっへっへっ、ほっぺたの真っ赤にえぐれたおばけよ」

「怖えぞい、血だらけなんだ。口が耳まで裂けててよ。おっそろしいのなんの、…もっとも、おめえはいいよな。目が見えなけりゃあ幽霊もへったくれもありゃあしねえ」

 二人は先を争って喋っている。

「そうよ。世話なしよ。そこへいくと目明きは不便ね。よけいなもんばっかり見えちゃって」

「ちげーねえちげーねえ。へっへっへっ。いいもんなんかありゃしねえ。どっち向いても浮世の地獄は見たくねえもんだらけだぜ」

 声こそ低めてはいたが、二人のやくざ者は盲の餅売りに気を許した。

「幽霊って、まっこと出るんですか」

 ふたたびタケが鈍重を装った声で訊いた。

「あったりきじゃあねえか。うらめしやーって出るんだよ。見た奴が何人もいるんだ。へっへっへっ、だから俺たちが来たんじゃーねえか」

「まっこと、まっこと出んですか」

「髪の毛逆立てて血がべっとりよ。足がねえんだ」

「あああ、おそろしおそろし。あたしやだ、こんなとこ。引っ越さなくちゃー」

 タケが大げさに顔をしかめた。

「ばははは…心ぺーなんかすんこたあーねえ。幽霊はおれたちが退治してやんからよ。今度も出たらばっさりよ。真っ二つにたたき斬って川ん中に放り投げてやるぜ」

「今度もだなんて、にいさん幽霊を斬ったことあるみたい」

 タケがかまをかけた。

(続く)

 

 

 

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