イラスト共に片桐 貞夫

 

 しかし金次は言わない。頭だけを地面になすりつけるほど下げて、こみ上げてくるものを抑えていた。

「いくつだったの金次さん、その時」

 全容を知らないタケには、ほかに訊きようもない。

「うっうっ…五つだ。かあちゃん、おれに、おれに死んどくれって…うっうっつ」

「…」

 タケは言葉を失った。なんと言っていいかわからなくなっていた。

 どうして母親は幼い金次を殺そうとしたのか。なにがあったのだろう。そしてどうして金次は助かったのだろう。

 しかしタケは訊けなかった。金次はたったの五歳だった。当然あったであろう母親の深い思惑が金次に解るわけがないし、なぜか一命をとりとめた幼児が、ひとり野辺をさまよったかと思うと、それを言葉にすることはできなかった。

「おかあさん、どうしたのかしら、そのあと」

 言ってしまってからタケはバカなことを訊いたと思った。我が子を刺した母親がすることといえば「死」しかない。

 なぜなんだろう。なぜ母親は死ななければならなかったのか。父親はどこにいて、どうしたのか。

「うっ」

 金次が喉をかみ殺している。

 タケは言葉を探した。つらい思い出を吐き出した金次の為に、慰めの言葉が必要であった。

「おかあさん、仕方がなかったのよ。とても生きていけないくらいつらい思いがあったのよ。ひどいことが、それはそれはひどいことがおかあさんの身に起こったのよ」

「うっ…」

 しばらく喉を鳴らしていた金次が立ち上がった。首を直角にたれて背箱を背負い、別れも言わずに去っていった。

 藤沢は戸塚の宿から二里と半。淋しい尾根道が続くがわけはない。天気が崩れそうもないのでリュウは着流し姿で歩いていた。

 中途の原宿付近であろうか、名物の曲り松木の間に畑地が見えるようになってきた。丹沢山の上に富士が冠雪をのせて浮いている。六つ半を過ぎたばかりだというのに秋の遊行寺参りに行くのだろう、白いはっぴ姿の講中が、三々五々と歩いている。行きかう人のほとんどは今日中に江戸まで行こうとする旅人たちに違いない。江戸到来を目前に、人々の歩速も速まっているようであった。

 行きかう毎に旅人は振り返ってリュウを見る。

 琉球生まれのリュウはその容貌を異にする。一般の日本女と違って目が丸く、鼻が高くて彫りが深い。人に好奇な目で見られるのは常のことであった。

 ごくろうに、タケの夫定吉は今朝も日が出る前にやってきた。昼間は堤工事の仕事があるし、リュウの頼んだ探りごとは夜にしかできない。

 それでなくとも盲目の妻を援ける忙しない身だ。きのうの夜も、まともに寝てないはずであった。

 リュウの耳に定吉の言ったことが思い出されてくる。一言一言が大変な苦労をして仕入れてきたものに違いない。

「近江屋の婿のことなんすが、てめえで首をくくったってーのはどうやら間違えーねえようす。みんな口なしでなかなか分からなかったんすが、藤沢の実家の蔵ん中で死んでたようで、へえ。…ところがどうもそれだけじゃねえようで…」

「それだけじゃないってどういうことだい」

「へえ、どうも。どうやらこれも間違えーねえようなんすが…奴さん、頭もいかれてたようなんで」

「あたまも?」

「ええ、そうなんす。どういう具合でそうなったのか、いくら訊いてもわからねえんすが、気がおかしくなって、そいでてめえの首を、…そうらしいんすよ」

「そうかい。藤沢の実家でね」

「ええ、藤沢は遊行寺の大黒屋ってー下駄屋らしいす」

「ああ、知ってる知ってる。だいこくやか。下駄の大黒屋は聞いたことあるよ」

「なんでも先代とか先先代が、桐の駒下駄で儲けたとか、遊行寺に行きゃー誰でも知ってる老舗だそうすよ」

「だれに聞いたんだろ、あたしも知ってる」

「あっしはよっぽど藤沢まで足をのばしてみようと思ったんすが、夜中に行くわけにやーいきやせんし、お天道さんの出てる間はちょいと、へえ」

 定吉の口調ではだいぶ残念そうであった。

(続く)

 

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