イラスト共に片桐 貞夫
一、
「けしちまうぜ」
迎えにきた夫の定吉が火箸をならして言った。土壺の火種のことを言ったのだ。
風の凪ぐ秋の夕陽を頬に感じる。盲目の闇ではあるが、一面の夕焼け空に帰路を急ぐカラスが高く飛んでいるのがタケに判った。
「いいんだな、消して」
「…ええ」
一息ついてからタケはあきらめたかのようにうなずいた。
火種のふたをすることはめしいの自分にもできる。しまい支度のいちばんあとでいいのにとタケはさびしく思った。
東海道は江戸から十里、戸塚の宿の中宿も七つをめやすに喧騒となる。行きかう人の数が増し、駄賃馬の足も忙しげになって「おとまりをー、おとまりをー」と呼びかける宿引きの声が高まってくる。しかしそれはしばらくの間のことであった。半刻もすると人の姿はまばらになる。日没には、まだ間があるというのに、旅人たちは宿にこもって翌日の早発ちに備えるのであった。
旅籠の居並ぶ中宿を東にはずれ、「かわらさま」と呼ばれる脇本陣の内田屋敷を過ぎると商家の構えが大きくなる。「でんがく」「むぎとろめし」といったひらがな文字がなくなって大店が並ぶようになってくる。
タケが出す金つば餅を食わす屋台は近江屋という呉服問屋のかどを入った路地にあった。それは、近郊の上矢部村にしか通じない田んぼの畦道になるのだが、近くに疫病除けや縁結びの古刹明福寺、それに生駒屋という湯屋があり、一日に二十四枚の餅を売りさばくには十分な人通りがあった。
「こりゃーあしたも好い天気だ。空が真っ赤だぜ」
夫婦になって半年あまり、目の見えないタケの為に、あたりの状況を口に出すのは定吉の癖になってきていた。
「とんぼだらけだ。どこもかも赤とんぼでいっぺえだよ」
「……」
タケはなにも言わずに小のれんをたたんだ。
赤とんぼの飛びかう羽音はききとっていた。子供のころ見た夕焼け空が思い出される。武州は相模との国ざかい、尾ケ瀬の村も、秋の夕暮れ時になると赤とんぼでいっぱいであった。
「元気がねえじゃあねえか」
真っ黒に日焼けた定吉が、屋台にかつぎ棒を通しながらタケを見た。
顔一面の火傷痕、額もただれて髪が後退している。ふだんは、見えもしないのによくまわる白い眼であるが、伏し目がちで動かない。
「どっかの洟たれがいらねえことをこきゃがったな」
定吉は、タケが誰かにからかわれて気を沈ませているのかと思った。盲ゆえによくあることであった。
「どこの洟たれだ」
「ううん」
タケは、定吉の方に顔を向けると首を振った。
「そうじゃないの」
そして静かに微笑んでから人寄せ用の鈴をしまった。
定吉はタケに惚れていた。タケはやけど面のめしいではあったが、口や鼻が小づくりで目じりが長く切れている。えりあしが細っそりしていてもともと器量好しであることが定吉に判った。
知り合った当初、過去への贖罪の気があったことは確かであった。リュウという女から聞かされたタケの哀れな身上への情け心があったことも嘘ではない。が、いまは違う。極道渡世の裏道で多くの女を知った定吉ではあったが、こうして女を愛しく思うようになったのははじめてのことであった。
「いやなこたあー、かくしっこなしだぜ」
「うん」
タケがしんみりうなずいた。それから小さく頭を下げて礼を言った。
「ありがと」
「なんでぇーいちいち。今度はなんの礼でぇー」
「だって定吉さん、疲れてるのに」
タケも定吉の過去を知っている。
若い女を漁っては騙くらかしてかどわかす。定吉が島原に送った女の数は十や二十ではない。打ち首になってもともとの身を、リュウという琉球女に救けられたのだ。
定吉は、リュウのするめしやの前で手をついた。ひたいを地面になすりつけ、三日三晩、雨と風に打たれたのであった。爾後、定吉は極限に生きて生傷が絶えない。連日の土方仕事で人の嫌がる仕事を選んでやり、家に帰っても目の見えないタケをおぎなって身体を休めることをしない。
(続く)
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