2016年10月6日 第41号

 

イラスト共に片桐 貞夫

 

 イトが瞬間を待った。死生を超越していた。

 あおくび吉藏の体重が左足にかかった。右足が前に出ようとした。イトの全身にばねが漲った。

 そのときであった。

「まちな!」

 声が閃った。

「待つんだ」

 得体のしれない声が降って湧いた。天井裏から響いたようであった。

「はやまるんじゃねえ」

 奇怪ではあるが人間の声であることには間違いない。しかしどこから出たのかわからない。ようやく二人のさんぴんが身体をまわして声を探した。唐紙を開け放った。

「死ぬんじゃあねえ。そんなどぶねずみは刺し違える価値もねえ。あたしがやってやるから動くんじゃねえ」

 男の、しかも火消まがいの口ぶりがあたしという。開けた唐紙の奥隅にむっくり動く影があった。

「せっかく今日まで生きてきたんだ。命を粗末にしちゃあいけねえ」

 黒い影が動き出した。

 湯上りの散歩でもするかのようにゆっくりと歩いてくる。

 油灯のとどくところにきた。

 人間である。女である。

「なっ!」

 男たちが後ずさりした。本物の幽霊と思ったのだ。

「あたしゃね、あたしゃリュウってんだ。琉球のリュウっていうんだよ。てめえみてえな糞垢を叩き殺すのをしがねえ道楽とする女なんだよ」

「なんだとー!」

 やっと男たちから声が出た。降ってわいた声が人間の、しかも女の口から出たことが判ったのであった。

「てめえは」

 男たちの驚愕はリュウの暴言のためだけではなかった。ゆらめく油灯に浮かび出たその容姿が並でない。リュウは顔が細くて背が高い。目がまん丸で大きいのだ。一尺ほどの細い棒を両手にしているのであった。

「聞いたよ。聞いた聞いた。てめえの悪党ぶりにゃあ恐れ入った。極道の片隅にもおけねえ糞垢たー思ってきたが、同じぼぼから生まれてきたはらから喰らう毒マムシたー恐れ入った」

「やかましいやい!」

 吉藏が反逆に出た。

「金次さん、いや、おイトさんだったな」

 リュウが吉藏の罵倒を無視して幽霊女に言った。

「死ぬなーやめな。どうせいつかー死ななけりゃーならねえときがくる。急ぐことなんざーどこにもありゃあしねえ」

 リュウは知った。八重の娘イトが「金次」と名を変えてたばこ売りの男に化け、タケの出す屋台で金つば餅を食いながら近江屋を探る。裏裾の黒い袷を裏返して足のない幽霊を装い、妾宅に忍び込んで辰蔵のほほを裂いたことを。

 一方、金次であるイトも妙な女の出現がどういうことなのか分からない。合わない辻褄を合わせようとしていた。金つばのタケが、リュウという琉球女のことを言ったことはおぼえている。女はタケとミネ、ほかにも多くの女の命を救い、慈悲深いという。

 タケの言うことは信じるが、どうしてその女がここにいる。白刃をかかげる男たちの前でいったいどうしようというのであろう。

「おイトさん、その刃物を引きな」

 しかしリュウが続けている。

「そんな女の顔を切り刻んだって、なーんにも戻ってきやしねえ。刃物を引きな。シズノはあたしが突き出してやる。あした岡津さまに届け出て、お上の裁きにかけてやる。シズノは、おイトさんが手にかけて罪をかぶる値打ちのねえ女だ。…けんどこいつあー違う」

 リュウが吉藏を見た。

「こいつあー、あしたまでも生かしちゃーおけねえ」

「うるせー!」

 吉藏の甲高い声が割れた。

「だ、だまってりゃあー言いてえことばっかりぬかしゃーがって。構わねえから斬れ。その尼から先にたたき切れ!」

 二人のさんぴんが吉藏の両側に展開して間をあけた。どす先を上げた。

 リュウが吠えた。

「ばかやろー!…てめーたちも地獄に落ちてえのか。地獄に落ちんのはあおくびだけでいいんだ。てめーたちは引っ込んでろい」

 凄まじいたんかであった。

「やろー!」

 しかし一人が飛び込んできた。リュウには武器らしい武器がない。手に持つのは二本の短い柏棒でしかない。あごの張った百姓なまりが猛然と初太刀を浴びせてきたのだ。

「よー」

(続く)

 

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