2016年9月22日 第39号

 

イラスト共に片桐 貞夫

 

 惣次郎恋しさに生きていくことができない。近江屋に行って女中をしてでも惣次郎に会いたいと思った。

 一方、惣次郎の方でも八重が忘れられなかった。いくらシズノを好きになろうとしても意が合わない。シズノのわがままは度を越していた。惣次郎はいても立ってもいられなかった。たとえ親から勘当され、どんな貧乏してでも八重と夫婦になるべきであったと後悔した。そんな時に八重がきた。八重が近江屋の女中として働きだしたのであった。

「八重」

「次郎さん」

 はじめのうちは廊下などで顔を合わせるだけであったが、やがて人の目を忍んで逢うようになった。ある晩、二人がより添っているところをシズノに見られてしまった。シズノは荒れた。気が狂ったかのようであった。八重の髪をつかんでは蹴り、引きずりまわしては打ち据えた。着の身着のままで追い出したのだ。

 しかし二人の逢瀬は止まらなかった。惣次郎は寸暇を得ては会いに行く。八重の隠棲する裏長屋でイトが生まれた。

 このころになるとシズノと惣次郎の夫婦関係は、名ばかりのものになっていた。シズノが「吹き上げ」や「月ヶ瀬」などのところに水茶屋遊びに出かけるのは毎日のこと。馴染みの若衆も三人や四人ではなかった。

 シズノが、惣次郎と八重の関係が引き続いていることをかぎつけたのは、娘のイトが五歳になった頃であった。二人の間に子供までいることを知ったのだ。

 シズノは自ら手を下すことを控えた。八重を始末するには絶好な者がいる。極道の二人の弟、辰蔵と吉藏であった。近江屋ののれんへの信用上、父親から勘当されていたこの兄弟に、シズノは、器量よしの八重の顔を二目と見えぬようにすることを言いつけたのだ。

「イト」

 両ほほを無残に切られた八重は、死しかないことを思った。母なきあと、路頭に迷う幼いイトのことを思うと心中しかない。

「おかあちゃんと死んどくれ!」

 ほほを切られ、血泥にまみれた八重は鬼と化してイトの喉を刺した。それから自らの胸を刺したのだ。しかし八重は死ねなかった。入水した。幾たびとなく自殺を試みたが生き延びてしまったのであった。

 一方、妻シズノの策謀を知った惣次郎は、失踪した八重の行方を追った。母子の心中を必至とみたが、見つかったのは喉を刺されて動かない血だらけの小さなイトの身体だけであった。

 惣次郎は気を違わせた。ひとり呆然と彷徨後、実家大黒屋に戻って裏の蔵の中で、死んだと早合点したイトと八重の後を追って首をくくったのであった。

「そのがきが生きてやがったのか」

 吉藏がうなった。

「生き返えりやがったのか。…わかった。けんど、きょうは死なしてやる。間違えーなく母ちゃんの待ってる冥土に行かせたるぜ」

「うるせえ!」

 幽霊を装うイトがどなった。

「おれはてめえで死ぬ。しょっぱなからそのつもりだったんだ。けんどその前にこのあまを殺す。この毒あまの死にざま見てから死ぬんだ。それでもいいのか」

 イトがシズノの髪をつかんで引っ張った。刃先をほほから喉元に変えた。

「アヘー ! !」

 シズノが啼いた。両眼球が真っ赤に飛び出している。

「そこをどけ。いなくなりやがれ」

 イトは吉藏に言った。どうやら道を開けろと言っている。

「そこをどいて雨戸を開けるんだ。そうすりゃあシズノの命だけは助けてやる」

 イトにとってシズノの身柄だけが安全保障の引換券であった。

「どけ! いなくなりやがれ。さもねえと…」

 イトが、短刀の刃先をシズノの喉に立てた。

「…!」

 シズノは声を失っている。洟とよだれが垂れ流れている。

「うせるんだよ」

「うせろ? うせろっていうんか。…ばははは…こりゃあいい…ばははは」

 ところが吉藏が笑った。身体を震わせ天井を見て笑った。

 イトの短刀刃先がシズノの喉の皮膚を切った。

「ぎゃー!」

 イトがさらに言った。

「わかりの悪い野郎たちだ。そこをどけ。ぐずぐずしやーがんとシズノの首にこの短刀をぶち込んでやるぜ」

「ふん…」

(続く)

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。