2017年10月26日 第43号

 

素敵な出会いと武士道 そして台湾へ

 稲造を乗せた船は横浜港から太平洋を渡ってサンフランシスコに到着しました。そしてさらに数日間も大陸横断鉄道の汽車に乗って、はるか東のペンシルベニア州にようやくたどり着きました。22歳の稲造にとって、まずはアメリカの広さにびっくりしたことでしょう。そして希望や期待よりも不安や寂しさのほうが大きかったのでは、と想像します。

 早速苦学を重ねながら、大学で農政学などを学びます。そしてある日、キリスト教の一派であるクエーカー教徒の集まりに、素敵な出会いが待っていました。のちに生涯を共にするメアリー・エルキントン嬢との運命の出会いです。そしてちょうどそのころ、日本から手紙が届きます。札幌農学校助教授に任じ、3年間農政学研究のためドイツに留学を命ず、とあり、官費による留学です。稲造はびっくり、そして大いに喜んだことでしょう。これは札幌農学校時代の先輩で、当時札幌農学校の教授をしていた、同じ南部藩出身の佐藤昌介の取り計らいでした。

 今度はニューヨークから大西洋を渡ってドイツにやってきました。心残りはメアリーと離れ離れになってしまうことでしたが、ドイツのボン大学やベルリン大学で、農政学や統計学などの勉強に大いに励みます。そして彼女との手紙のやり取りで、結婚を決意します。Eメールや携帯電話など無い時代の遠距離恋愛の成就。二人の愛情の深さを感じます。そしてもう一つ稲造にとって、大きなことが起こりました。長兄の死です。次兄はすでに亡くなっており、三男の稲造が新渡戸家を継ぐことになり、18年ぶりに太田から新渡戸稲造に戻りました。

 そして3年のドイツ留学を終えて、アメリカに戻り、メアリーと結婚式をあげます。稲造は28歳でした。当時は国際結婚などまだまだ珍しく、また日本のことなどほとんど分からないメアリーの両親は最初は反対で、結婚式にも参列しなかったようです。そしてすぐに日本に戻り、札幌農学校の教授となり、新婚生活が始まりました。

 札幌農学校での稲造の講義は大変評判になり、教育者として多方面に活躍するようになります。しかし二人にとって大変悲しいことが起こりました。男の子が誕生しましたが、わずか一週間あまりで息を引きとってしまい、二人の悲しみは想像を絶します。また遠友夜学校の創立などにも力を注ぎますが、疲労も重なって稲造は重い病気にかかってしまいました。そしてすべての職を辞して、群馬県の温泉などで治療することになり、その間に本を書きあげます。「農業本論」です。この本の冒頭に「亡き母の紀念に此の書を捧ぐ」と「紀念」という漢字を使っていることは初回のエッセイに書きました。母の死と子どもの死が重なったのではと思えてなりません。

 そしてさらなる治療のために、しばらくアメリカのカリフォルニアで過ごすことにしました。その静養中に生まれたのが、あの「武士道」です。新渡戸稲造を世界的に有名にした名著。1900年38歳のときでした。これは日本人の精神(The Soul of Japan)を妻のメアリーや外国の人に分かりやすく説明しようと書いたものであり、当然英語で書かれています。1894年の日清戦争で、清国を破った日本に対する関心が高まっていた時期でもあり、ドイツ語やフランス語など数ヶ国語に訳され、世界的なベストセラーになりました。米国のルーズベルト大統領が大いに感銘を受け、子供や友人たちに読ませたというエピソードも残っています。 

 この本の最初のページに、養子として多くを学び、アメリカ留学を許してくれた太田時敏おじさんに対する感謝の気持ちが記されています。 To my beloved Uncle Tokitoshi Ota I dedicate this little book 「little book」とはいかにも日本的ですね。

 そしてこの「武士道」への素晴らしい評価を得て、稲造は太平洋の橋になる大きな一歩を踏み出した自負と喜びを感じたことでしょう。日本という国を世界に知らしめた特筆すべき本だと思います。でも、もし赤ちゃんの悲劇もなく、病気にもならなかったら、この「武士道」の出版は無かったのでは…と、余計なことを考えてしまいました。でも何となく「人間万事塞翁が馬」を感じます。

 健康もかなり回復し、3年ぶりに日本に戻ってきた稲造に突然、政府関係の仕事が入ります。日清戦争によって日本の植民地になった台湾の農業開発を行うことでした。そして今度は台湾に向かいます。

 

 


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