2017年7月27日 第30号

出会いの「きっかけ」

 もちろん新渡戸稲造の名前は知っていました。読んだことはなかったですが、「武士道」という本を書いた人ということも何となく知っていました。そしてもちろん5千円札の肖像(1984年〜2004年)になっていたことはよく知っていました。ですから、とても偉い人だと思っていました。

 でも教育者ということ以外はほとんど分からず、具体的にどのようなことをした人なのか、知りませんでした。

 1994年(平成6年)小生50歳のとき、家族でカナダ・バンクーバーに移住してきました。そして日本語教師として、UBCという大学で教える機会があり、その大学の構内に新渡戸ガーデンという、日本庭園があることを知りました。早速見学に行きました。そして新渡戸稲造を記念(紀念)する庭園だということが分かりました。

 大きな石灯籠や「願わくは われ太平洋の橋とならん」という石碑を眺めながら、とてもきれいな日本式の庭園だと感心しました。その時、新渡戸稲造を記念する庭園がなぜカナダの大学、ここUBCの構内にあるのか、少し不思議に思いましたが、でも残念ながら、詳しく調べてみようという気持ちは起こりませんでした。

 

きっかけの「野球害毒論」

 私は子供のころから野球が大好きでした。小学校時代は「ピッチャーで四番」の野球少年。 ですから、バンクーバーに移住してからも日本の野球のことが気になり、インターネットで日本の新聞をときどきチェックしていました。そして2011年(東日本大震災)の秋でした。こんな新聞の見出しが目に入りました。「読売・朝日新聞の100年戦争か?」です。

 いわゆる「読売巨人軍の清武社長の乱」、この記事を朝日新聞が大きく取り上げたようです。記事の内容にはほとんど関心なかったですが、「読売・朝日100年戦争」がとても気になり、少し調べてみました。2011年の100年前は1911年です。実はこの年に野球に関する興味深い記事が見つかりました。

 「野球害毒論」です。そのころの日本は大学生の間で野球人気がものすごく高まり、過熱状態で、早慶戦が中止になるなど、大きな社会問題になっていたようです。そこでこの年(1911年)の夏に、まず朝日新聞が学生は野球などに熱中せず、勉学に励むべきとの「野球害毒論」なるキャンペーンを連載し、当時の著名な教育者等がいろいろコメントを出しています。そのトップバッターが当時、第一高等学校(現 東大教養学部)の校長である新渡戸稲造です。

 彼のコメントは「野球という遊戯は悪く言えば巾着きり(スリ)の遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである。ゆえに米人には適するが英人や独人には決してできない。 野球は賤技なり。剛勇の気なし」

 これを読んでびっくりしました。何でこんなことを言ったのか、野球少年としてかなり腹が立ちました。そしてここカナダの大学UBCの構内に記念庭園があるほどの人物・新渡戸稲造とこのコメントがどうしても結びつかず、どのような人物なのか、そしてUBCとの関係なども詳しく調べてみたくなりました。

 そして記事の続きは、この年の秋に、今度は読売新聞が朝日新聞の「野球害毒論」に対抗して、野球のすばらしさを展開し、日本野球の父と言われている安部磯雄らが熱弁をふるい、世論も「そうだ!」との声が強く、読売新聞が勝利したとのこと。それ以来、両社の因縁が100年も続いており、今回(2011年)は朝日新聞の復讐か、などの記事でした。

 まさにこの「野球害毒論」が新渡戸稲造との出会いの「きっかけ」でした。そして、それから新渡戸稲造のことをいろいろ調べ始めました。驚きました。びっくりしました。

 「えー、教育者だけでなく、国際連盟などでもすごいことをした人なんだ」、「へー、だから台湾には親日家がとても多いんだ」などと大いに納得しました。

 こんなすごい人のことをどうして今までほとんど知らなかったのか、日本人としてまた日本語教師として、かなり後ろめたさを感じながら、カナダで出会った新渡戸稲造にどんどんのめり込み、夢中になってしまいました。

 UBCの新渡戸ガーデンにも何回も足を運んでいます。

 そしてもっと多くの人に新渡戸稲造という人物を知ってもらいたく「生い立ち」などから書き綴りたくなってしまいました。

 


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