2017年8月31日 第35号
誕生の地(盛岡)にある銅像
生い立ち
新渡戸稲造が生まれたのは今から155年前の1862年です。1853年にペリーの黒船が来航し、尊王攘夷そして討幕の嵐が吹き荒れていた、まさに江戸幕末激動の真っただ中でした。南部藩 (現在の岩手県盛岡市)の武士の三男、兄弟姉妹8人の末っ子です。
当時父親は藩の江戸留守居役として、江戸におり、外国の珍しい品物、例えばオルゴールなどを土産として、ときどき実家に届けていたようです。稲造はそんな外国の珍しい物を見ながら育ったので、普通の子供よりは外国にあこがれや親しみを感じていたのでは、と想像できます。
少年時代はかなり腕白だったようですが、稲造が5歳のとき1867年に父親が世を去ります。この年は大政奉還、坂本龍馬暗殺など、そして夏目漱石や正岡子規が生まれた、日本の歴史上とても大変な、そして重要な年ですが、ちなみにカナダの建国もこの年1867年(7月1日)で、今年2017年は建国150年です。まさか将来そんな異国の地、カナダで客死することになるなど、5歳の稲造は夢にも思わなかったことでしょう。
そして翌年1868年が明治維新。新しい時代の幕開けです。このとき南部藩は会津藩などと幕府軍に加わり、薩摩藩や長州藩などの新政府軍と戦い、賊軍として敗れます。時代の大きな変化とともに、幕府側についた南部藩は当然苦難を余儀なくされました。
そしてそのような激動のときに、母親のせきが一人で子供たちを育てなければなりませんでした。でもこの母親せきは良妻賢母のほまれ高く、すごいお母さんだったようです。これからの世の中、新政府に逆らった南部藩の人間が偉くなるにはどうしても学問が必要だと考え、江戸から戻ってきたかかりつけの医者に頼んで、子供たちに英語を習わせたようです。稲造がすごく英語が得意になったのも、この頃の母親の教育のたまものだったのでしょう。また、当時はまだご法度になっていた牛肉を強い子に育てようと、子供たちに食べさせたというエピソードも残っています。当時としてはとても進歩的な、まさに教育ママの先駆者だったのではと、思えてなりません。
稲造は末っ子でもあり、この母親の影響を強く受けて育ち、いつも「立派な人になれ」といわれて育てられたようです。そして日本よりはるかに文明の進んだ国があることを知り、いろいろなことを勉強するには、ぜひ東京に行ってみたいと思い始めました。
この時、稲造の叔父である太田時敏(稲造の父親の弟)はすでに盛岡を離れて東京に出ており、洋服店を経営していたようです。そして子供がいない叔父さんの要望もあり、三男の稲造は太田家の養子となって、名前も太田稲造と変わります。
歴史に「もし」は禁句ですが、もし南部藩が新政府に逆らわなかったとしたら、新渡戸家もそんな苦難は受けず、稲造も養子などにいかず、かなり違った道を歩んだのではないだろうか、と勝手な想像をしてしまいました。
そして1871年、明治維新から3年後、勉学のため、養子先である東京の太田叔父さんを訪ねて盛岡に別れを告げました。これが母親との最後の別れになろうとは知る由もありませんが、稲造9歳の旅立ちでした。
母親『せき』の写真
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