2017年11月30日 第48号

 

台湾で大仕事、国際連盟でも!

 当時、台湾は日本の植民地であり、農業開発が大きな課題でした。そこで農学の専門家である新渡戸稲造に白羽の矢が立ちます。これは当時の台湾総督である児玉源太郎と民生長官の後藤新平による強い要請でした。武士道を出版した翌年1901年、新渡戸稲造は台湾総督府の役人となり、技師として砂糖キビの改良に乗り出します。

 当時の台湾の農産業、特に糖業はひどい状況だったようです。そこで新渡戸稲造は念入りに調査し、質の良い砂糖キビを外国より取り寄せ、戸惑う農民をやさしく説得して、徐々に活気を帯びてきます。砂糖キビの試験場なども作り、古い製法を改善して、その後台湾の糖業は大発展を遂げることになりました。彼の台湾での仕事は2年ほどでしたが、「製糖の父」として知られています。

 でも残念ながら、台湾でこのような大仕事をしたことなど、一般の日本人はほとんど知らず、歴史の教科書で学んだ記憶もありません。台湾南部の高雄には日本統治時代の製糖工場跡があり、糖業博物館になっています。そこに新渡戸稲造を記念する胸像があると、台湾にいる生徒が教えてくれました。そこで昨年(2016年)、胸像に会いたく、高雄まで足を伸ばしました。台湾に親日的な人々が多いのは新渡戸稲造がそのきっかけを作ったのだ、と強く肌で感じました。UBCの新渡戸ガーデンに台湾の方から彼の胸像が寄贈されたのも頷けます。

 日本に戻り、再び教育者として活躍します。京都帝国大学の教授として招かれ、1906年に第一高等学校(現東京大学教養学部)の校長に就任しました。教育者らしくない教育者として教育界に新風を吹き込みましたが、一部の学生や文部省などと意見の衝突もあったようです。また文筆家としても活躍し、「随想録」や「一日一言」など多くを執筆しています。

 そのころの日本は日露戦争に勝ったことですっかり浮かれており、学生の間でも野球熱が高くなり過ぎ、早慶戦が中止になるなど社会問題になっていたようです。第1回目に書いた「出会いのきっかけ」である朝日新聞の「野球害毒論」もまさにこのころでした。でもなぜあのようなコメントを出したのかは理解できず、有識者・新渡戸稲造としては、かなりマイナスだったのでは、と思えてなりません。彼に関する本はかなり出版されていますが、これに触れている本はほとんどなく、本人もあの世で「野球害毒論」だけは後悔している、と思わず想像しちゃいました。女子教育にも力を注ぎ、1918年に創立された東京女子大学の初代校長に就任し、女性向けの雑誌なども出版して、ますます名声を高めていきます。

 大きな転機が待っていました。第一次世界大戦が終わると、1920年に世界平和を目的に国際連盟が作られました。日本代表として新渡戸稲造にまた白羽の矢が立ち、国際連盟の事務次長に就任します。58歳、今度はスイスのジュネーブに向かいます。

 スウェーデンとフィンランドの真ん中にあるオーランド諸島は昔から紛争が絶えず、第一次世界大戦終了後も両国間で領土問題が起こり、出来たばかりの国際連盟が調停役を務めました。その調停は、フィンランドが統治するが、言葉や文化はそのままスウェーデン式とし、オーランド諸島に高い自治権を与える。これが「新渡戸裁定」です。状況を熟慮し、白黒をはっきりさせず、いかにも日本的な裁定として有名であり、オーランド諸島に平和をもたらしてくれた人として、尊敬されています。フィンランドでも新渡戸稲造を記念して「桜祭り」が行なわれていると聞きました。素晴らしいですね。さらにユネスコの前身となる知的教育委員会を立ち上げ、アインシュタインやキューリー夫人を引き込んだのも新渡戸稲造であり、国際連盟では「ジュネーブの星」として高い評価を受けています。

 しかし、国際連盟でこのようなあっぱれな仕事をしたことなど知っている日本人は少なく、私も知りませんでした。でもなぜこんな素晴らしいことを学校で教えないのか、とても残念です。これらの知られざる魅力的なことを歴史の時間に教えるべきだと、強く思った次第です。

 


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