『二つの歩み』〜日本外交と日系人の遺産

第4回『戦後復興時代』

 

在バンクーバー日本国総領事館主催の講演会が8月2日行われた。テーマは「二つの歩み:日本外交と日系人の遺産‐戦後復興時代」。バンクーバー総領事館開館125周年記念講演全6回の第4回。今回は、同日と3日に開催されたパウエル祭の一環として催された。会場となったバンクーバー仏教会には100人以上が集まった。 講演者はゴードン門田氏と岡田誠司総領事。終戦の1945年から1980年までを振り返った。

 

 

4回目の講演となる在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏

  

外交文書から紐解く戦後のバンクーバー領事館史

 ◆岡田誠司総領事

 

 日本が終戦を迎え、日本外交が再開。バンクーバー総領事館も再び開館し、業務を再開した。領事館業務は戦前とは全く異なり、新たな役割を担った再出発となった。

 

1.バンクーバー領事館の再開館

 バンクーバー領事館が再び開館したのは1952年6月。カナダの領事館の中では最も早い開館だった。日本は1951年サンフランシスコ講和条約に署名(52年発効)。これをきっかけに外交を再開した。翌年4月、オタワの日本大使館が開館。当時の大使がバンクーバー領事館開館の必要性を日本に伝え、6月に開館した。1941年12月、河崎領事が自宅軟禁され、事実上業務を停止してから約10年後の業務再開となった。当時、領事館は臨時的にホテル・バンクーバーに開設。のちにウエスト・ヘイスティングスに移り、現在の場所に移ったのだという。

 さらに領事公邸についても興味深いエピソードを語った。日本が太平洋戦争に突入した1941年12月から、当時の河崎領事は5カ月間自宅軟禁された。その後、アメリカ経由で日本に送還され、公邸は差し押さえられた。カナダ政府は公邸を9000ドルで売却。サンフランシスコ講和条約署名後には、カナダ政府がその9000ドルを返金したと説明した。1952年領事館再開館後、この元公邸は売り出されていたが当時は資金不足のため買戻しを断念。1959年再び売りに出された時に55000ドルで購入した。現在は180万ドルの価値があるという。これはバンクーバーサン紙に掲載され「いい投資だ」と締めくくられていたと笑った。

 

2.領事館の役割の変化

 戦後、再びバンクーバー領事館が開館した後は、戦前とは全く違う役割を果たすことになった。

 戦前は、日系移民に対する人種差別に基づく不公平な政策や排斥行為に対処することが多かった。当時中国系移民に課せられていた人頭税(移民一人あたりに対して課せられる税)の日本人移民に対する適用や日系漁師への業務許可証の発行停止などへの対応が顕著な例として挙げられた。

 戦後はこうした対応を迫られることはなく、BC州に帰ってきた日系カナダ人との連携と経済関連の業務が主なものとなった。領事館の業務としては「劇的な変化となった」と語った。

 ただ再開館した当時は、まだバンクーバーに日系カナダ人は少なかった。統計によると、1950年で200人から300人。52年で約2000人だったという。日系人排斥政策でバンクーバーを離れた人々は、3分の1はBC州に、3分の1はオンタリオ州に、あとの3分の1は、その他の州へ散らばっていったと語った。そんな中、領事館は戻ってきた日系カナダ人と連絡を密に取っていた。日系人の就職状況が厳しいことも、こうした連絡を通じて把握した。

 1954年頃から日本企業がバンクーバーに進出を始め、56年には大手商社が事務所を開設。この当時、バンクーバーの市場調査が必要な日本企業は領事館を通して情報を得ることになるが、領事館は日系カナダ人たちと情報を交換し、状況を把握していた。こうして戦後初期の領事館と日系カナダ人の関係が築かれていった。

 

3.日本の世界舞台への復帰をカナダが後押し

 サンフランシスコ講和条約署名後、日本が世界の舞台へ再び復帰をしようという重要な局面でカナダの後押しがあったと語った。

 1955年9月に日本は関税と貿易に関する一般協定(GATT)に加入する。これが、戦後奇跡の経済発展と言われる日本の経済発展への大きな転機となる。当時はまだ日本の加入に抵抗を示す国もあった。この時、カナダ政府が強く支持したという。56年、国際連合に加盟する時も同様に、カナダの強い後押しがあった。国連加盟の時はカナダがアメリカに強く働き掛けたという。その後、1964年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟。名実ともに先進国の仲間入りを果たした。この時もカナダの強い支持があったと語った。この間、日加間でもさまざまの協定が結ばれた。1954年には日加通商協定が成立している。

 こうして戦後、日加間は友好な関係を築いていった。岡田氏は自身の外交官としての経験エピソードを添え、その友好ぶりを説明した。1981年に外務省に入省し、最初の赴任地が82年オタワのカナダ大使館だった。87年に再びカナダ大使館に赴任する。「カナダのスペシャリスト」として再来加したが、日加関係が友好すぎて外交官としてやることが見当たらなかったと冗談交じりに語り、笑いを誘った。現在はバンクーバー総領事として、文化的、経済的に、さらに良好で補完的な両国間関係を築いていく役割を担っていると語った。

 

 

門田氏は「前3回の講演者が良かったのでプレッシャー」だと笑った

 

「日系人社会の復興」

 ◆ゴードン門田氏

 

 カナダ日系人社会の歴史の中で、強制収容という最も暗い時代が終わり、バンクーバーの日系社会が劇的な変化を遂げた戦後を振り返る。日系人社会の再建と日系人としてのアイデンティティの確立、日系移民百年祭をきっかけにリドレス運動へとつながるまでを語った。

 

1.歴史認識の意義と 日系人の定義

 なぜ今でも日系人排斥や補償問題を戦後こうして何十年経っても語るのか。その意味を「まず初めに」と断って話し始めた。門田氏は、「過去に起こったことから、良かったことは続けていく、誤ったことはそこから何かを学び、将来へと伝えていく」ことが大事だと語った。「どこかで日系の歴史を語るたびに必ず誰かが『それは知らなかった』と言ってくる。だから語り続ける」のだと。この講演でもそうした意義を見つけてくれれば、と語った。

 その上で「日系人とは」と問いかけた。カナダには、日系1世、2世、3世、新移民、定年後移民、日本人とカナダ人の両親を持つ子供など、現在は日系人といってもさまざまな形態がある。その中で、自分は日系カナダ人ではない、もしくは日本人ではないと主張する人がいるため、「Nikkei」という言葉を用いることがこの社会の呼び名に相応しいと思うと前置きした。

 

2.バンクーバーへの 帰郷とコミュニティの再建

 1945年8月、戦争は終わったが、カナダ政府の日系カナダ人への排斥政策は終わっていなかった。それまでの戦時措置法(War Measures Act)に代わり、カナダ緊急暫定支配法とも言うべきNational Emergency Transitional Powers Actが1945年に発動された。

 日系カナダ人が自由になったのは1949年4月。終戦から3年半が経っていた。彼らは1950年頃からようやくバンクーバーに戻り始めた。1946年にカナダから追放された人々も、カナダへ帰国し始めた。その後、日本の商社が進出。駐在員の在住が始まった。当時、英語が得意でなかった彼らは苦労していたという。1956年には懇話会が結成。本格的に日本企業進出が始まった。

 1963年には日本から最初の企業の視察旅行者が来加した。70年代には日本からの旅行客は急増する。旅行業に就いていた門田氏はこの流れを目の当たりにした。80年までには10万人を超えた。

 60年代の後半には、カナダの移民法改定により新移民が急増した。彼らの移住を手助けしたのがJCCA(Japanese Canadian Citizens Association)。YMCAを借りてオリエンテーションなども開いたという。この時、日系カナダ人の歴史、排斥体験などについて、そうした事実が過去にこのカナダで起こったということを伝えた。新移住者は自分たちには関係ないとして関心を示さなかったが「この地に日系人として生活するなら知っておくべきことだ」と語った。

 こうしてバンクーバーの日系コミュニティは排斥政策から解放され、戻ってきた日系カナダ人と日本から来た新移民とで構成されていった。

 

3.日系2世の苦悩

 戦後、日系カナダ人2世たちは、自分たちのアイデンティティの確立に最も苦しんだ世代だという。多くの2世は現在90歳を超えている。門田氏は同世代でも若手だ。彼らは、戦前に日系カナダ人として生まれ、戦時中は敵国人扱いされ、戦後はカナダ市民として復権した。そうした環境で、自身のアイデンティティと自信をなくし、戦後しばらくはカナダ人を強調するため日系人であることを拒んだ時期があった人もいたという。

 1953年に戦後初めてJCCA総会が開かれるが、この時、1世は日本語で、2世は英語で話し、一部の2世は自分たちはもうカナダ人なのだから日本語は必要ないと主張したこともあった。彼らはカナダ人であることを強調し、日本と関わりがあることを避けたがっていた。「今では信じ難いがそういう時代があった」と語った。2世は「ロスト・ジェネレーション」と言われることがあるのだという。

 彼らが日系人として自信を回復し始めたのは、1970年多文化主義が導入されてから。日本の目覚ましい経済復興もそれを後押しした。日系人であることに引け目を感じる理由はなくなった。

 

4.日系移民百年祭を 経て補償運動へ

 70年代は日系人にとって大きな転機となる時代となった。その最大の理由は1977年の日系移民百年祭。前年に準備のため日系百年祭実行委員会(JCCS)が結成され、ケベック州、オンタリオ州、マニトバ州、アルバータ州、そしてBC州に支部を設置。全国の日系人が一つの目的を持って活動した。BC州支部を率いた門田氏は、BC州では100以上のイベントで盛り上がったと当時を振り返った。

 1世、2世、成長した3世、新移民と「Nikkei」が一つとなって盛り上がったイベントとなった。そしてこの年の11月、ウィニペグでJCCA全国会議が開催された。その時、議題として取り上げられたのがリドレス運動。賠償要求ではなくあくまでも過去の過ちを正すリドレスが目的だった。日系人が体験したカナダ政府による「排斥政策」は二度とあってはならないという思いがあった。こうして日系社会は80年代へと引き継がれていった。

 日本の外交文書から紐解くバンクーバー領事館史と日系人の経験から綴るバンクーバー日系人社会史。この二つの歩みの中で「激動の時代」と言えるがこの時代。日系社会も日本社会も、ゼロから始まり、ともに立ち上がっていった時代だった。そんな中、バンクーバーでは、日系カナダ人と日本人が絆を深め「Nikkei」社会を築いていく。日系社会は新たな幕を開け、そして次の段階へと歩んでいった。

  

 

当日の会場の雰囲気。静かな会場内とは対照的に、外ではパウエル祭でにぎわっていた

  

 次回講演会「第5回 戦後補償運動・1990年代」は、日系プレースで10月24日に開催される。

 

(取材 三島直美)

読者の皆様へ

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