『二つの歩み』日本外交と日系人の遺産

第3回『第二次世界大戦時代』

 

今年開館125周年を迎えた在バンクーバー日本国総領事館ではこれを記念して、総領事館と日系コミュニティーの歴史を、講演者や過去の外交資料、その時代を生きた人々の記憶を通して振り返る6回のフォーラムを1年にわたり開催する。 第3回目は、6月27日にスティーブストン仏教会会館で行われた。在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏と、ヘンリー・シミズ氏をゲストスピーカーとして迎え、約100人の参加者が真珠湾攻撃後のカナダで激動の時代を生きた日系カナダ人の体験談に聞き入った。

 

 

ゲスト・スピーカーとして強制収容地での経験を色彩豊かに語るヘンリー・シミズ氏

(右は在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏)

  

岡田誠司総領事の講演

 世界中に衝撃を与えた、1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃。それがカナダでどのような波紋を投げかけたのか、岡田誠司総領事が、東京で記録として保管されている文献と資料から、当時の様子を語った。

 すべてを変えたのが真珠湾攻撃であった。カナダ国としては同盟国の米国が攻撃されたとして集団防衛の体制をとった。カナダは日本に対し両国が戦争の状態にあるという宣戦布告を通知する。その後、総領事館が閉館してから1951年に再開するまでの記録はない。しかしその当時何が起きたのかは他の文献にて追求できる。

 カナダ連邦警察(RCMP)の記録には、カナダの外務大臣から在カナダ日本公使吉沢清次郎氏に宣戦布告の手紙が送られたことが記されている。カナダの日本に対する宣戦布告は、日本大使館への有線通信で送られた。日本の米国へ対する攻撃は英国コモンウェルスにとっても脅威とみなされたというのが宣戦布告の理由であった。

 当時の総領事は河崎領事。真珠湾攻撃のニュースはラジオで聞いた。オタワの公使館に電話することもできなかった。国家間に関するこうした重大な事柄は前もって連絡されるものだが、彼にとっても真珠湾攻撃は驚きであった。

 カナダの国立図書館に保管されている記録によると、12月7日、真珠湾攻撃の6時間半前の8時15分に、カナダ側は日本からの通信を傍受している。「緊急事項・92494 マネジャー小柳より。調整のため服部南記念図書館会館への緊急基金額を直ちに電報されたし」。これは内容が不可解な暗号メッセージであり、日本の宣戦布告を意味していたのかもしれないが、河崎領事に知る由もなかった。

 1941年12月16日、日本人を敵国人とする辞令が通達。当然、外部との通信は閉ざされた。河崎領事はバンクーバーの公邸で待機する間、書類を焼却処分した。数日後にRCMPからの通告により自宅での軟禁が命じられた。

 その間、日本とカナダの間では外交官の交換に関する交渉がなされた。日本との通信はスペイン国名誉副領事を通して行われた。5カ月続いた自宅での軟禁の後、1942年5月に河崎領事と家族は日本へ帰国。オタワからワシントンDCまで渡り、ニューヨークから中立国であったスウェーデンの船で太平洋を経て、アフリカ湾岸タンザニアで日本・カナダ・英国間の外交官の交換が行われた。

 1941年12月の時点ではBC州には2万3千人の日本人が住んでいた。当然ながら領事としてはそれらの日本人、または日系カナダ人への扱いを懸念した。しかし、その後の日系カナダ人に対するカナダ政府の厳しい扱いは予想してはいなかったという。

 1952年、バンクーバーの領事館の業務が再開。戦後カナダで最初に再開された領事館だった。河崎領事が1942年まで住んでいた総領事公邸はカナダ政府により没収され、他人の所有となっていたが、1958年に売りに出された際に日本政府はその家を再び購入し現在に至っている。

 

 

聴衆による質問応答。強制収容所の選択権は与えられていたのかという質問に対して、時間が経つにつれ選択肢は絞られていったが一応選択はできたという回答がなされた

 

ヘンリー・シミズ氏による体験談

 強制収容を自ら体験したヘンリー・シミズ氏は、当時の日系カナダ人の経験を代表して語った。医師であり画家でもあるシミズ氏は、強制収容の任命地となったニュー・デンバーを離れた50年後の1999年に、当時の思い出を描いた。その作品を展示、さらに、スライドで紹介しながら語った。

 1942年2月26日、セント・ローレン法務大臣により、カナダ国会内閣から地方議会への閣議令が承認される。12月から2月まで2万3千人の日系人に対する取り扱いが討議されていた。BC州にいた日系人のほとんどは日本からカナダに帰化したカナダ人、またはカナダで生まれたカナダ国民だった。日本人を両親とするシミズ氏も1928年にカナダで生まれたカナダ人であった。しかしすべての日系カナダ人は政府から青い紙切れをもらう。憤慨した若きヘンリー少年はその紙切れを破り捨てた。今では貴重な記念品となったであろうそのカードには、彼がカナダで生まれた外国人であると記されていたのだ。

 当初、国防省は日系人が西海岸にとどまっても脅威の対象にはならないと示唆しており、RCMPはそれに同意さえしていた。しかしBC州の議員をはじめとする内閣内での日系人に対する反感が強制退去という方向に向かわせた。その主な理由は、BC州での20世紀初頭から年々激しさを増していた日系漁師や木材伐採人に対する反日感情に由来していた。結果として西海岸から日系人労働者を締め出す方針が採択された。西海岸から100マイル以内は「防衛地域」とされ、日本人を祖先とするカナダ人は退去を命じられた。  後になって明らかにされたが、1907年(アジア人排斥暴動が起きた年)にマッケンジー首相が事件を調査させた際、日系カナダ人を西海岸から拡散させる方針が検討されていたが、その時は実現しなかった。しかし1941年12月の真珠湾攻撃、カナダの参戦が、その方針をすぐさま実現させる引き金となった。

 1942年3月23日、ヘンリー少年は家族と共に故郷プリンス・ルパートを強制退去させられる。バンクーバーへ向かう列車の駅には、学校の先生と数人の生徒たちが見送りに来ていた。生徒の幾人かは事情が把握できずに、ヘンリー少年がバケーションに行くものと勘違いしていた。友達から「どこに行くの?」と聞かれてもヘンリー少年は「わからない」とだけ答えた。本当にどこに行くのかわからなかったのだ。

 バンクーバーに到着した日系人はヘイスティングス・パークの仮小屋で6カ月間とどまった。当時の日系新聞「ニュー・カナディアン」(英語)の社説にも、カナダ政府は「フェア・プレー」をするだろうから西海岸にとどまるようにとの呼びかけがあった。しかし、それは実現されなかった。

 1942年8月、シミズ家はニュー・デンバーに到着。プリンス・ルパートの家は失い、所有物は没収された。車、自転車、ラジオ、カメラなどもすべて取り上げられた。後にニュー・デンバーの市民と交友を深めた日系人は徐々にカメラやラジオなどを入手することができた。ヘンリー少年はそこで、戦後1年後の1946年8月までの4年間を過ごした。

 拘束されたキャンプ地は、当初は一列に並んだ家、有刺鉄線が張り巡らされたフェンスなど、強制収容所の色が強かった(グリーン・ウッド、タシメなどがその例)。しだいにその色は薄れていき、ニュー・デンバーなどは特に一軒家を自由に建てられるようになった。ここにいた日系人の多くは造園や大工などの仕事に関して未経験だったが、すぐにそうしたスキルも学んでいった。

 家はプレハブ式だった。1942年11月までには200件あまりの家が建てられた。ニュー・デンバーは1888年に炭鉱地として栄えた場所だったため、ホテル、裁判所、銀行、食料品店などがすでにそろっていたが、日系人が移動した当時は100人足らずの人口だった。

 日系人は材木を大事にし、木を切り倒すのも最小限に抑えたという。沢山の木に囲まれていることはその土地のシンボルともなったし、人々を支える環境ともなった。それは戦後多くの日系人が日本に引き揚げるか、カナダにとどまるかを決断する大きな要素ともなった。

  

 

シミズ氏は強制収容所の様子を描いた自身の絵画作品をスライドで紹介。当時の様子をユーモアとノスタルジアをこめて語った

  

 シミズ氏は戦後50年経ってから、同じ体験をした仲間たちと共に体験を語り合い、当時の若き日系人や建物を題材とした絵画作品を何点も描き上げた。周りの日系人は強制収容所を「オーチャード(果樹園)」と呼んだ。ニュー・デンバーは果樹がたくさんあったからでもあった。人々は畑を耕し農作物を作り、自給自足の生活をしていた。

 絵画の中には当時のスポーツを楽しむものもあった。冬はホッケー、夏は野球。中にはプロ野球選手として通用するほどの腕を発揮する若者たちもいた。トレイルから来たチームと対抗試合をした際に、相手チームのコーチが、日系人チームのピッチャーとキャッチャーに、オレゴン州ポートランドのブルックリン・ドジャースのファーム・チームに来ないかと誘うほどであった。日系人は、自分たちは「囚人なので」という理由から残念そうにそのオファーを断った。

 オルソン・ハウスと呼ばれる劇場は1888年、当時の市長によって建てられた。日系人はその劇場を修復し、ダンスフロアーに仕上げた。当時の写真には、ダンスをする日系人の中に、白人が何人か見られる。ニュー・デンバーに以前から住んでいた白人と、「果樹園」の日系人の間は徐々に近くなっていた。

 シミズ氏が最後に見せた絵は盆踊りをする女性の姿であった。それは1946年の8月のお盆。その美しき踊りは長く感じたニュー・デンバーでの生活へ終止符を打つラスト・ダンスでもあった。しかし、その後も生まれ故郷を失った日系人は日本に帰国するか、他の州へ移動するという決断に迫られることになり、それぞれ新たな章を迎えることになる。

 シミズ氏は、ニュー・デンバーで過ごした4年間は多くの日系人にとってはビター・スウィート・メモリー(ほろ苦き思い出)だと言う。すべてを失い、囚われの身として強制的に収容されたのは苦き思い出。同時に、日系カナダ人は助け合って逆境を乗り越え、いくつかの良き思い出を作り上げた。その反骨精神は、当時を生き抜いた日系カナダ人の強い精神と、現在まで存続する友との固い絆の中で今も息づいているのである。

 

(取材 亀谷長政 写真提供在バンクーバー日本国総領事館)

 

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