2020年4月30日 第14号

1978年の創刊以来、メトロバンクーバーを中心にカナダの日系社会と共に歩んできたバンクーバー新報(以下『新報』)。4月30日号で41年の歴史に幕を引くことになった。2014年には、「日系コミュニティーの連携ばかりではなく、日本とカナダの友好親善関係に創刊以来、寄与してきた」として、津田佐江子社主が、外務大臣表彰を受賞している。

生活に役立つ情報、人々の動きを伝え、コミュニティーの人々をつないできた新報。カナダにおける邦字新聞として、新報が日系社会とともに歩んできた歳月を振り返りたい。

 

1978年に発行されたバンクーバー新報第1号

 

1 黎明期

手書き新聞、産声を上げる

 新報が産声を上げたのは1978年12月16日。第一号はガリ版印刷だった。ガリ版といっても、デジタル化された印刷物に慣れた若い世代は、分からないかもしれない。謄写版とも呼ばれ、原紙に手書きで書いたものを印刷するもので、第一号は手作り感があふれる手書き新聞だった。

 「当時は日本語メディアがなく、日本で何が起きているのか分かりません。トロントやシアトルなどからの新聞を購読していた人もいましたが、多くの人が情報不足に不自由を感じていました」と津田は振り返る。「日本語の情報に飢えていた中、私のところに耳よりの情報が入ってきました。バンクーバーに寄港する船におみやげ物を売る人がいて、知人の一人がその仕事をしていて、日本の船には無線で日本のニュースが入るというのです。捨てるという船舶通信をもらってきて、見せてくれました。その通信を見て、この情報を新聞にして日系社会に配布しようと思いつきました」。

 津田らはバンクーバー近辺の5つの港へ到着する日本の船の情報を調べて、停泊中の貨物船の通信を分けてもらう。そこから、バンクーバーに住む人が興味を持ちそうな情報を選んで、まとめたものをガリ版刷りで印刷。500部作って、パウエルストリートにあった日系商店に無料の新聞として置いてもらったところ、あっという間になくなった。

 今は、バンクーバー日本語学校(VJLS)、バンクーバー仏教会がある以外、日本人街の面影はほとんど残していないパウエルストリート。しかし、「当時のパウエルストリートには、現在、クラークドライブに店舗を構えるFujiyaをはじめ、美浜屋、清水商店、日本食レストランのAkiやKamoなどという日系の店が軒を並べ、買い物に来る日系人も多かったですね。当時は隣組もありました」という。

 「美浜屋には広告を出してもらったりと、お世話になりました。KamoやFujiyaは、2階を安くオフィスに貸してくださいました。たくさんの方から優しい心遣いで支えていただいて、ここまでやって来られたと思います」と感謝する。創刊時は3〜4人の仲間と、津田の自宅のベースメントで作業をして、無料で配布していた。広告もなく、印刷代も自分たちの財布からの持ち出しだった。そんな苦労を評価してくれたのだろう。

コミュニティーのニーズで変化した内容

 第一号は日本のニュースのみだった新報だが、読者のニーズに応えて変化を遂げる。第三号では、ローカルの情報として、バンクーバー在住の日本人による紙細工の個展の告知、そして「スキーを楽しみましょう」と仲間を募集する掲示欄も登場。コミュニティーの人たちに向けての情報提供も始めた。さらに、日本のニュースに加えて、英語が苦手で、カナダで何が起きているのかよく分からないという人のために、カナダのニュースも掲載するようになった。

 ニュースの情報源も時代とともに変遷を遂げる。船舶通信の後は、飛行機で乗客が利用した日経新聞や朝日新聞などの新聞を入手して、紙面づくりに利用した。そして1986年からは通信社と提携して、日本から配信されるニュースを読者に届けてきた。「86年に通信社と提携することになったのは、バンクーバー万博のおかげでした。取材にバンクーバーを訪れた、日本の通信社のスタッフが、現地のメディアとして新報に関心を持ち、提携を持ち掛けてきてくれたのです」。

 英語で日本のニュースを読みたいという要望に応え、日本のニュースを英語に翻訳して掲載した時期もあった。英字記事は1979年7月から1983年10月までの4年間続いた。「英字部分ではなく、日本語ページに広告を掲載してほしいと、広告主の皆さんがおっしゃるので、結局、日本語のみの紙面に戻しました」。

 2002年からは、若い読者層を主なターゲットとしたパート2を増刷して無料で配布するようになる。「学生さんやワーホリで来ていらっしゃるような若い人たちは、お財布事情が厳しい人が多いので、そのような人たちにも読んでいただけるようにしました」。

 使用していた印刷技術も変化してきた。手書きのガリ版印刷から始めて、1年後にポータブル和文タイプライターを購入、さらに、創刊4年後の1982年には、本格的な和文タイプライターの導入を決断して、日本から取り寄せた。しかし、そこで問題が発生する。「思い切って購入したタイプライターがカナダに届いたら、高い関税がかかりそうだということで困り果てました。そんなときに、通訳をしてくださったロイ上田さんが、交渉して無税を勝ち取ってくれました。いつもたくさんの人に支えていただきました」。

 その後、ワープロ、そしてマッキントッシュのコンピュータとなる。ワープロというのは、パソコンのワープロソフトではなく、専用機のことだ。ワープロ時代は、記者が新報オフィスに来て、ワープロで入力した記事を入稿。印刷した記事の裏にワックスを塗り、台紙に貼り付け、それを印刷所まで持って行った。

 コンピュータになってからは、記者からの原稿もインターネットを利用してデジタルで届く。手作業がなくなり、新報から印刷所への入稿も電子ファイルを送るようになり、時間を短縮することができ、格段に便利になった。

 

2 カナダ、そして日系社会の変遷とともに

日系多文化主義法制定からワーキングホリデー制度スタートまで

 新報は日系社会の変遷とともに歩んできた。紙面を見ると、時代の移り変わりを追うことができる。1980年頃の紙面では庭師やウエートレスの求人広告が多かった。当時のカナダは「グローバル経済の中での競争力強化」という名目で経済移民の拡大に力を入れていた。結果、途上国からの移民や難民も大量に流入し、社会のモザイク的な民族・人種構成がどんどん多様化した。1988年にはカナダは多文化主義法(Multiculturalism Act of 1988)を制定して、世界で初めて多文化主義を法制化した国となった。そのようなカナダ政府の動きを背景に、1985年は意識的に多様文化を宣伝する広告が新報に入るようになった。

 1986年にはバンクーバー万国博覧会(万博)が開催される。新報では日本をはじめとする約90のパビリオンを紹介した。期間中、日本館にも延べ300万人以上の来館があった。

 万博開催で、スカイトレインのエキスポラインやコンベンションセンターの誕生をはじめとする、インフラ整備がバンクーバーで進み、大きく変貌を遂げる。続いて、1997年の香港返還を前に、90年ごろから香港からの移民が急増して、香港系中国人と結婚した日本人らがカナダに移民してきた。

 万博開催の86年から1991年までがバブル景気となっているが、この時期、日本人の海外旅行ブームが起きる。急増するカナダを訪れる日本からの旅行者に対応して、日本の旅行社が多数、バンクーバー支店を開設することになった。土産物店も増え、新報の求人広告もウエートレス、すなわちサーバー以外に、土産物店のセールスクラーク、ツアーガイドが出るようになった。ダウンタウンのアルバーニストリート周辺は日系レストラン、土産物店などが増え、歩くと日本語が聞こえ、新日本人街(旧日本人街はパウエルストリート)と呼ぶ人もいた。

 バブル期の豊かな経済の下、旅行社以外にも、日本企業の進出が続き、活性化した。旅行客だけではなく、増加した日本企業の駐在員や日本からの学生、移民らが日本料理のレストランを利用した。

 1986年は日加関係で大きな意義のある年となった。当時の中曽根康弘首相が来加してワーキングホリデー制度を発表。カナダが日本人にとって親しみのある国となっていった。移住者も1980年は年間100人程度から、1994年は1000人と右肩上がりに増加した。

 ワーキングホリデー制度の発効により、日系社会は若い人が増えて様変わりした。新報も日本語の情報紙としての役割が拡大して、求人広告、学校情報、売ります、買います、貸し部屋、ホームステイ情報のスペースが増えていった。一方、若者をターゲットにした詐欺や性犯罪なども増加した。

カナダ政府、戦時中の日系社会に謝罪

 同時期にあたる1988年には、マルルーニ首相が率いるカナダ政府が、第二次世界大戦中の日系カナダ人に対する強制収容や財産没収等についての誤りを認めて、日系社会に公式に謝罪した。一人につき2万1千ドル、総額2億8800万カナダドルの補償を行うとの発表があり、補償を受けるのに該当する日系人に申し出を行うようにという広告も新報に掲載された。

 カナダ政府からの戦時中の日系人への補償金の一部を利用して、2000年前後に新さくら荘、日系文化センター・博物館、日系ホームが生まれた。日系コミュニティーをあげての大規模プロジェクトで、懸命な募金運動が行われた。新報もプロジェクトを紹介して、理解、認知を広めるなど運動の後押しに努めた。

大相撲、のど自慢、平成天皇皇后両陛下のカナダ訪問から五輪

 バブル景気の頃はカナダの日系社会も盛り上がった。1998年6月にはパシフィックコロシアムで大相撲カナダ場所が開催された。イベントには、当時の横綱、曙、若乃花、貴乃花の3力士をはじめ、日本から約100名が参加した。特に若乃花、貴乃花は大人気を誇り、若貴フィーバーという言葉まであった空前の相撲ブームの中でのカナダ公演に、日系社会も大いに沸いた。

 今ではインターネットやテレビジャパンで日本のニュースなどを見ることができるが、マルチカルチュラルチャンネルやアイカステレビ(ICAS)で一週間に一度、それも1時間程度の日本語放送を楽しむという時代もあった。日本語での娯楽になかなか手が届かなかった時代、新報杯カラオケ・チャンピオン大会をアイカスと共催で行った。また、2003年のNHKのど自慢のバンクーバー大会の誘致、開催でもコミュニティーが団結して、盛り上がった。

 2008年と2009年の二年間は、日加修好80周年を祝う記念の年として、さまざまなイベントが開催された。特に2009年には、今の上皇上皇后両陛下(平成天皇皇后両陛下)がカナダを訪れ、バンクーバー日本語学校、新さくら荘、日系文化センター・博物館、日系ホーム、ブリティッシュ・コロンビア大学なども見学された。新報ではその様子を写真と記事で伝えた。続く2010年にはバンクーバー五輪開催。競技だけでなく、さまざまな五輪関連イベントがメトロバンクーバーで行われ、新報紙面でもコミュニティーの活動を紹介した。

 

3 地域と歩んだ紙面

日本の被災者を応援

 コミュニティーがひとつになったのは、楽しい、明るいことばかりではなかった。2011年に起こった東日本大震災では、遠く離れたカナダから日本のために何かしたいという声に応え、新報でも「がんばれ日本」キャンペーンを企画。応援広告スペースを提供して、1万3340ドルを集め、カナダ赤十字を通じて寄付した。さらに、バンクーバーで開催されたさまざまなファンドレイジングイベントのレポートも行い、サポートに努めた。災害被害者への支援は今も続いていて、昨年度の台風の災害義援金寄付の情報を紙面で提供している。

慰安婦像設置問題で日系社会に激震

 2015年には慰安婦像設置問題があった。バーナビー市と姉妹都市提携を結んでいる韓国の京畿道華城市の市長らが、1月にバーナビー市を訪れた際、当時の市長、コリガン氏に平和を祈念する像を建立したいと提案。バーナビー市側は検討すると回答したものではあったが、この事態にメトロバンクーバーの日韓関係が大きく揺れた。

 日系社会の一部では署名運動を展開したほか、バーナビー市慰安婦像設置反対期成同盟会も生まれ、バーナビー市議会に慰安婦像やそれに類似する像や碑などを公共の施設に設置する許可を与えないように働きかけ、同時に韓国側との対話を求めた。新報ではこれらの期成同盟会の所見を報じ、日系社会への情報提供に努めた。

 本紙の電話インタビューでコリガン氏は、「慰安婦像設置によるコミュニティーの分断を望まない」と回答。像は設置されなかった。

南京大虐殺記念日制定の反対運動

 同様の事件は2018年にも起こる。今度は中国系コミュニティーが、カナダ、そしてブリティッシュ・コロンビア(BC)州で南京大虐殺記念日を制定しようと動いたのだ。カナダの人種和合を促進する期成同盟が、トルドー首相をはじめとするカナダの国会議員334名、さらにBC州議会議員に、記念日制定運動はカナダ及びBC州における多様性文化、多国籍文化の尊重と人種間の和平に重大な危機を与えるものだという内容の書簡を送り、制定阻止を目指した。その際にも新報では制定運動および反対運動に関する情報を逐一、掲載した。

 「南京大虐殺記念日制定問題では、署名運動をという声もありましたが、中国系コミュニティーと日系コミュニティーでは数の上で圧倒的に不利でした。そのため、議員一人ひとりに手紙を送りました」と津田は振り返る。実際、カナダでの記念日制定に賛成する署名は約4万人分集まっていた。

 結局、国会に記念日制定を求めた動議は否決された。トルドー首相は「この問題は真の和解の精神で臨まなければならない」と、政府回答の中で語っている。

 慰安婦像設置、および南京大虐殺記念日制定問題の報道の背景には、モザイク社会、カナダで暮らす日系ジャーナリストとしての津田の強い思いもあった。「メトロバンクーバーの日本人といっても、さまざまな人がいます。日本人同士の夫婦、戦前からの日系移民の家族、中国系や韓国系と結婚した日本人配偶者…。さまざまなバックグラウンドを持つ人、人種が共に暮らすのがカナダの魅力です。そんな私たちが多様性を重んじ、平和に仲良く暮らしていくことができる社会を目指して、報道活動を行っていきたいと思ってきました」。

 大きな問題、事件のみではない。読者からのトラブル情報を受け付け、情報共有に努めるほか、Canada Revenue Agencyを装った詐欺、テキストメッセージを使用した詐欺についての記事で、注意を喚起。地域とともに歩む紙面づくりに努めてきた。

31年間続いたソフトボール大会

 また、新報と日系社会とのつながりで、忘れられることができないものの一つにソフトボール大会がある。創刊翌年の1979年に始まった、新報主催のソフトボール大会は、31年の長きにわたり続くことになった。第一回は8チームが参加して行われたが、全盛期の90年代には16チームがしのぎを削った。スライディングで骨折者が出て中止になったり、「ストライク」「いやボールだ」と判定でもめて、チーム同志が取っ組み合いになったこともあるという。「多くのボランティアの皆さんに助けていただいて続けたソフトボール大会は、主催としての苦労が多かった一方、私たちも本当に楽しませていただきました」と笑顔で津田は語った。

 創刊以来、日系コミュニティーの絆やつながりを大切に、読者とともに歩み続けてきた新報だが、4月30日号をもって終了する。「41年にわたり、新報を発行してくることができたのは、読者をはじめ、日系社会、そして創刊以来、紙面づくりの現場を支えてくれた全部の広告主様、ボランティアの方々、コラムニストの皆さん、会社スタッフ(従業員、記者)と投稿者の皆様、さらにバンクーバーのその他コミュニティーのご支援があってのことと、心より感謝しています。新報は戦後初の日本語新聞として、創刊から終了までの全号を日系文化センター・博物館に寄贈し、その後は博物館で閲覧管理される予定です。日系コミュニティーの共有物として日系博物館で保存管理していただけるのは大変うれしく、喜びです」。

(取材 西川桂子)

 

英字部分もあった

 

 

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は今号をもちまして終了いたします。

しかし、日系コミュニティーに支援されて41 年余り続いてきた新報を存続させたいとの思いから、オンラインによるウェブサイトでの情報発信を継続することになりました。

SNS を含むオンラインは、弊紙で記者をしておりました三島直美と西川桂子が、責任者として引き継ぎ新体制で再出発する予定です。

今後も引き続き、ウェブサイトの閲覧をよろしくお願いいたします。