2020年4月30日 第14号

「志げさんはとてもおしゃれ好きで、100歳の頃も服装を気にしてられました。最近のことでは、志げさんが歌を口ずさんでいたのに驚きましたよ。よくよく聞いていると『君恋し』だとわかりましてね」。志げさん親子と40年来の付き合いである友人が朗らかに語る。こうして今も周りを明るくしている峯柴志げ(みねしば・しげ)さんは、2020年5月18日に111歳の誕生日を迎える。

 

花の大好きな峯柴志げさん(写真左)。娘の京子さんと一緒に

 

よく噛み、よく手を動かして

 バンクーバーの自宅で一人娘の京子さんと二人暮らしの志げさん。過去に転倒を繰り返したことから歩くことは制限されているが、立ち上がる力は健在だ。100歳から認知症を患うものの、自分で食事ができ、意思表示も明快である。「母はコーヒー、緑茶をよく飲みますわ。抹茶も1日1回は飲んどります」と京子さん。そして食べる時は30回も40回も噛み続けているという。「母の長寿の秘訣はよく噛むことと、よく手を動かすことじゃないかと思います。昔は着物を一晩で縫ってた人で。今も紙をきっちり畳むんです」

家計を支えてきた志げさん

 そんな志げさんは1909年(明治42年)生まれで愛知県海部郡の農家出身。七人兄弟の末っ子で、皆にかわいがられて育った。幼い頃、ハコベを摘んでは家で飼うニワトリのエサにして、父はそのニワトリを骨まで砕いて肉団子にして食べさせてくれたという。

 志げさんは姉の嫁ぎ先の支援を受けて名古屋の女学校に進学。「信念ある女性の育成」を理念として掲げる桜花高等女学校(現桜花学園高等学校)の1期生となる。女学校卒業後は、峯柴一郎さんとお見合いで結婚した。峯柴家は京都に煎餅屋を出すが、一郎さんの生活の中心にあったのは能の謡いの習得や指導だった。その分、志げさんが仕事に励んだが、戦争で砂糖が手に入らなくなってからは店を畳み、戦争未亡人の授産所を運営する慈善家の元で秘書を務めた。その後も生花店勤務、保険の販売と身を粉にして働き生計を支え続けた。

 カナダに移住し、当時国家公務員だった京子さんに呼び寄せられ、1968年に一郎さんと共にカナダ移住後も、ベビーシッターに励み、83歳までは家の食事作りを担当した。111歳を目前にした今も「ベビーシッターの仕事ないか?」と口にする根っからの働き者だ。京子さんによれば、志げさんの人柄は「ええ加減なことは絶対しない人」だという。「私には『ちゃんとせい、ちゃんとせい』って言う厳しい人ですわ」

自宅介護をサポートする人々

 日頃、穏やかに寝起きしている志げさんだが、96歳で心臓のカテーテル手術を経験しており、顔が青ざめたり、呼吸が止まったりしたこともある。京子さんがハラハラしたことは幾度となくあったが、呼べばすぐ駆けつけてくれる医師、ケースマネージャー、コミュニティーナース、そして家族のように気にかけてくれる友人たちや、北海道にいる元看護師の親戚のサポートがあって自宅介護を続けてこられたという。「皆さんには感謝の思いでいっぱいです」との電話越しの声からは、丁寧に頭を下げている京子さんの姿が思い浮かばれた。

 京子さんが呼びかける「お母ちゃん、お母ちゃん」。志げさんが応える「なんや」。なにげないやりとりが今日も続いている。

(取材 平野香利)

 

金剛流家元に師事した後、謡いを教えていた峯柴一郎さんと家計を支えた志げさん

 

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。