アポなし訪問の人物は

ある夕刻、トントントンと玄関ドアを叩く音がしました。アポなしで訪れる客といえば、我がベースメントスイートのオーナーに他なりません。オーナー家族は私たちの上階である1階部分に住んでいます。緩やかな傾斜に建つ一軒家なので、ベースメントとはいえ、裏庭に面した玄関は地上レベル、室内には上半身高の窓が四方にあり、太陽の照らす日は電灯なしでも十分な明るさがあります。
さて、この日のオーナー訪問の目的は……。「9月に育休を終えて仕事復帰するんだけれど、ベビーシッターを頼めないかしら? 9月から娘さんたち、キンダーへ通うでしょ?」という趣旨の打診でした。その通り、娘たちはキンダー通いがスタートし、朝9時から午後3時は私のフリータイムになります。しかしながら私は9月も引き続き語学学校へ通う予定があり、すでに学費の支払いを済ませた上で学生ビザを取得しカナダに滞在、さらに帰国日もそう遠くない期限付き。そんな事情を説明してベビーシッターを引き受けられない旨を伝えたのですが、何よりオーナーがこうして大切な赤ちゃんを私にあずけようと考えてくれた、それだけでありがたく心がジーンとなったのです。

心地よい距離感で暮らす

一戸建ての一部を間借りするということは、完全にプライバシーの保てる環境だとしても、同じ屋根の下、生活の音や洗濯室などあらゆるものを共有します。異なる家族、それも異なる国籍を持つ同士が隣り合って生活するわけですから、気遣いや距離感の考え方がかけ離れていると心穏やかに暮らすことは難しいかもしれません。現在のオーナーの場合、入居時から、いや見学前のメールのやりとりから心地よい気遣いを感じられ、入居後にその恩恵をじわじわ享受することになります。
オーナー家族は「いつも一緒に、仲良くGO!」というタイプではありません。気配は感じるものの1〜2週間、顔を合わせないこともあり、しかしいったん会えば「何か困ったことはない?」と熱心に気にかけてくれます。また「あのイベントがおもしろいそうよ」とホットなバンクーバー情報を教えてくれたり「カップケーキ焼いたの」とお裾分けしてくれたり、「ハンバーガー食べに来ない?」と夕食に呼んでくれたり、「娘ちゃんたち見てるからスーパーへ行って来たら?」とお米や牛乳など重量級の買い出しに連れて行ってくれたりと救いの手を差し伸べられっぱなし。今は家庭菜園のレタス、ケール、トマト、ズッキーニ、エンドウ豆が大豊作で「いつでも採って食べて」の言葉に甘え、朝食のサラダを少しずつ収穫させてもらっています。
こちらも何かお返しを……と日本土産のベビーグッズを手渡したりお団子をこねて持っていったりしましたが、「まだまだ感謝が足りない感」がそれでも拭えず、電気や水の節約に努めたり娘たちの生活態度へにらみを利かせたりと「いいテナント」になるべく目下努力中です。とは言え、娘たちは引っ切り無しにケンカしてギャーギャーやっているし、私の叱り声(というか罵声)もおそらくまる聞こえだし、アポなし訪問の際に部屋は散乱しているわ魚を焼いた煙は充満しているわで、内心、私たちに失望してない?と乙女な不安感さえ抱いていました。だからこそ、ベビーシッターを依頼されたことに大きな意味を付加してしまったのです。
ただもしも、ベビーシッターを完璧に引き受けられる条件が整っていたとしても、きっと丁重にお断りしてしまうことでしょう。自信がないというのが正直なところ。小さくか弱いかけがえのない宝物を、たまの数時間ならともかく、朝から夕方まで毎日世話するのは少々荷が重すぎます。自分の子どもだから何とかなっているわけで。

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2013年7月18日 第29号 掲載

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