2019年5月30日 第22号

5月18日、バンクーバー在住の峯柴志げさんは110歳の誕生日を迎えた。生まれは明治42年である1909年。そこから大正、昭和、平成、令和と、五つの時代を生きるに至った。現在の志げさんの暮らしぶりはどうか。そしてこれまでの体験からどんな時代の情景が見えてくるだろう。

 

自宅にて、110歳を迎えた志げさん

 

カナダ総督から祝いの文書

 5月、志げさんにカナダ総督のジュリー・ペイエット氏からの祝賀の文書が届いた。ペイエット氏は1992年から2013年まで宇宙飛行士を務めた女性として知られている。その文書には「あなたは宇宙時代までの目を見張るような変化を遂げた時代の証人であり、時間によってこそ明らかになる貴重な教訓を得てこられた」と長寿を称える文章が綴られていた。

 時代感を知るために志げさんと同じく1909年に生まれた著名人を調べてみると、小説家の太宰治、松本清張、映画評論家の小森和子のいることがわかる。

 

名古屋、京都、トロント、バンクーバーで110年

 峯柴志げさん(旧姓・安井さん)の出身は愛知県海部郡。姉の嫁ぎ先だった名古屋市戸田の鉄工所の羽振りがよく、そこで女学校への進学が叶った。峯柴一郎さんと結婚後は京都に住んで煎餅屋を営み、いろいろな仕事に携わった後、カナダに移住したのは1968年59歳の時。一人娘の京子さんを頼りに、夫の一郎さんとともにトロントに来て三人暮らしを始め、1979年バンクーバーに転居した。1985年に一郎さんは他界している。

 志げさんは百歳の時から認知症を発症し、現在は自宅のベッドの上での生活だが、自分で上半身を起こして食事ができる。会話の量はわずかだが、内容は明瞭に伝わる話し振りである。

 いつもそばで志げさんの世話を行う娘の京子さんに話を聞いた。

 

−志げさんは小さい頃のことをどんなふうに話していましたか?

 母が子どもの頃に住んでいた愛知の海部郡は木曽三川と呼ばれる大きな川が三つ流れ込む濃尾平野の扇状地で、地域には家よりも高いところを流れる天井川があって。よく川の氾濫があるもんだから、その辺りでは天井裏にボートを置いて、大水の後も水が引けないときにはそのボートを使ってた家もあったそうです。

 川と言えば母の父は川に仕掛けをこしらえて魚を獲っていて、その仕掛けがいたずらされんように父親が見張り用の小屋に泊まっていたそうです。その父親が村の寄り合いでいない夜には、まだ小さかった母に「小屋に泊まれ」と言うたそうで。母はワラを持って敷いて一人でその小屋に寝なきゃいけないもんだから、怖くて怖くてしかたなかったと。若い衆が酔っ払って大声で歌いながら近くを帰る、そんな声も怖かったって言うてました。

−女学校時代の写真も素敵ですね。

 名古屋の桜花高等女学校の1期生だったそうですわ。生徒代表として、天皇の皇女の方が名古屋駅を通過する際に、母が高坏をお勧めする役に駆り出されたことなどが自慢だったようです。女学校を出た後、父とお見合い結婚をして京都に行きました。

−そこから京都の煎餅店を一郎さんと営んでいったと。

 もともと父の家は曽祖父の代から和菓子や煎餅の型を作って全国に卸す商売で繁盛していたもんだから、父はのんびりしてたんですが、家の丁稚さんが出した煎餅店を父に任せまして。でも戦争が始まり、「砂糖が手に入らなくなって店を辞めた」って言うとりました。店を開いていたのが稲荷神社の参道で人通りが多くて、小さな私がちょろちょろしているのも危ないと思いはったみたいですね。

−それからも志げさんが中心になって仕事をがんばっていたとか。

 清水フク先生いう偉い人がおられて、大きなお屋敷で戦争未亡人の診療したり、戦争孤児を預かったりしてましてな。母はそこでフクさんの秘書をしたり、そこにいた人が始めた花屋に勤めたり、保険や銀行の仕事をしたりしていました。

 父が謡いを習って教えていたものの、それでは食べていけないので母が一生懸命働かないといけなかったんです。それに子どもが好きだったので、97歳になっても「ベビーシッターの仕事はないか」って言うてました。つねに足を動かしてましたね。戦時中、2、3歳だった私が滋賀県に疎開していた時も、月に一度は歩いて山を越えて会いに来てくれたんですよ。

−足腰が鍛えられていたんですね。そしてずっと元気でいたのでしょうか。

 87歳のときに心筋梗塞になって、ステントを入れる手術をしました。医者には「麻酔が覚めるか保証がない」と言われましたけど、3、4時間後に目を覚ましましてね。83歳までは家のご飯を全部作ってくれてたくらいなんですが、手術後はそろそろと歩くようになって。今も起きて歩こうとしますけど、気ばっかり焦っても体がついていかず転ぶので危ないんです。だからベッドの周りに椅子を置き、鈴をつけておいて、私が寝てる時でも動くとわかるようにしています。

 でもあとは体のことと言ったら便秘になりやすいのでその薬と、床ずれ防止の塗り薬くらいで。血液を取っても、医者にああしろこうしろと指導されることもないんですよ。まあ、何度か唇が紫になって息をしていないようなこともあったんですけどね。

−診察はどのように受けているんですか。

 ホームバイブ(Home VIVE)いういいプログラムがありましてね。ドクターやレジスタードナース、フィジオセラピストらのチームがあって、それぞれ必要な時に家に来て診てくれるんですわ。ドクターは呼んだら15分で来てくれました。ありがたいことです。

−普段の食事はどのようなものを。

 朝の3時頃起きた時にコーヒーを飲んで、クリーム状のオートミールを少しあげます。きなこ、ヨーグルトをかけたりして。朝、近所のお店が開いたらフィッシュコンジー(魚入りの粥)を買ってきます。母は前々からよく噛む人で。口の中に何もなくなるまでかんでいます。

−ところで家系的にも長生きなんですか?

 母の二人の姉は104歳まで生きましたね。

−そうですか。ところで志げさんは何か人生の教訓のようなことを言われることはありましたか?

 そうした人を指導するようなことは言わないんですよ。私にできないことがあると、「ちゃんとせい、ちゃんとせい」というのは厳しく言われましたけど。 

 

 話を聞かせてくれた京子さん自身も、ナニーとしてカナダでの生活を始め、タクシーの運転手、ツアーガイドと、志げさんに劣らぬ働きぶりで生活してきた人だ。

 志げさんのベッドの前には大きな額があり、中には不二川往来さんの手による写経の文字が書かれている。京子さんはそれを母のお守りにしているという。志げさんが百歳になった時、比叡山延暦寺の僧侶が1000日間の修行を行うことになぞらえて、母の世話をもう1000日がんばろうと思ったそうだ。それを3回経ての今がある。

 取材時、母娘の気の置けないやりとりが目の前でなされていたのだが、そこで記者が感じたことがある。それは骨身を惜しまず働き、誇り高く生きてきた志げさんと、介護生活を支えてくれる周りの人たちへの敬意と感謝の思いだ。その思いを確かな人生の教えとして記者の胸に刻んでおきたい。

(取材 平野香利)

 

Governor General of Canada の Julie Payette氏からの祝いの書

 

志げさんが百歳の時にエリザベス女王から授与された百歳の祝いの書もある

 

志げさんの米寿(88歳)を祝って娘の京子さんと

 

1923年の関東大震災時、東京から逃れてきた被災者のため、名古屋駅に炊き出しの手伝いに行った時の志げさん

 

桜花女子高等学校の制服で

 

1931年2月に一郎さんとの結婚式を挙げた

 

飲食時には自分の力でベッドの上で体を起こして

 

 

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