パワー溢れるアメリカンドリームの体現者〜無一文から億万長者へ
1949年に京都市で生まれた吉田氏は、19歳で単身渡米。当初、所持金はほとんどなく、車の中で寝泊まりしていたという。その後、空手道場経営などを経て、30歳を過ぎてからソースの生産販売のビジネスを始めた。そして、今や全18社、年商250億円となったヨシダグループの会長兼CEOだ。まさにアメリカンドリームの体現者である吉田氏が、トレードマークのテンガロンハット姿で表れると、会場からは大きな拍手が沸き起こった。バンクーバーを訪れるのは実に32年ぶりだという吉田氏。「あんまりノートとること心配せんでええて。ノートとらんかてね、パワーをね、体でバーンて受け止めて。」という吉田氏の説明通り、講演の内容もさることながら、吉田氏が全身から放ち続けるパワーに多くを学んだ講演会だった。

「こんちくしょう、今に見とれ!」〜悔しさをポジティブなエネルギーに変える吉田氏の生き方
吉田氏は四歳の時、遊んでいる間に針が目に突き刺さるという非常に稀な事故で、右目を失明した。子供時代はそれが原因でからかわれ、その悔しさから、空手を学び、強くなった。人からバカにされた時に感じる「こんちくしょう、今に見とれ!」というとてつもないエネルギー。このエネルギーを、ネガティブな思考にではなく、ポジティブなパッションに変換させる。それはやがて周りの人を巻き込んで、大きな渦になり、ビジネスの成功にもつながる。「嫌なことが、いっぱい起こるから人間なんや」と語る吉田氏。片目の視力を失うという大きな試練があったからこそ、吉田氏は後に、生き馬の目を抜くようなアメリカ社会で成功することができたのだ。

ヨシダソースの誕生は偶然〜空手の生徒に送ったプレゼントがビジネスに発展
米国に渡って数年後、吉田氏は知人から空手道場を引き継ぎ、順調に経営していた。しかし不況が起こると一転して生徒数が激減。生徒からのクリスマスプレゼントのお返しもできない状況になった。そんな時に思い出したのが、日本で焼肉屋を営んでいた母が作るソース。醤油とみりんをベースにしたそのソースを作り、生徒にプレゼントとして渡すと大人気となった。これが、「ヨシダ・グルメソース」のビジネスにつながったのだ。その後は、毎日ソースをビン詰めして売ることに精一杯。がむしゃらにやってきて、気付いたらここまで来ていた。始めた頃は一日に三百本詰めるのがやっとだったソースだが、今は工場で毎日七万本を生産している。「今でも、工場行ったら感無量よ」と吉田氏は語る。

ヨシダソースの誕生は偶然〜空手の生徒に送ったプレゼントがビジネスに発展
米国に渡って数年後、吉田氏は知人から空手道場を引き継ぎ、順調に経営していた。しかし不況が起こると一転して生徒数が激減。生徒からのクリスマスプレゼントのお返しもできない状況になった。そんな時に思い出したのが、日本で焼肉屋を営んでいた母が作るソース。醤油とみりんをベースにしたそのソースを作り、生徒にプレゼントとして渡すと大人気となった。これが、「ヨシダ・グルメソース」のビジネスにつながったのだ。その後は、毎日ソースをビン詰めして売ることに精一杯。がむしゃらにやってきて、気付いたらここまで来ていた。始めた頃は一日に三百本詰めるのがやっとだったソースだが、今は工場で毎日七万本を生産している。「今でも、工場行ったら感無量よ」と吉田氏は語る。

「商売は目立ってなんぼ」〜実演販売で学んだ笑顔の力
ヨシダ・グルメソースの販売拡大のためには、まずグローサリー(食料雑貨店)の棚にソースを置いてもらい、それを消費者に手に取ってもらわなければならない。まだ知名度の低いソースには難題だった。そこで始めたのが実演販売。会員制卸売りチェーン「コストコ」と契約を結び、テンガロンハットに着物姿、さらにはエルビス・プレスリーやバレリーナの格好までして実演販売を行った。バカにされることを怖がってはいけない。商売は目立ってなんぼ。出る杭打たれてなんぼ。奇抜な衣装を着て買い物客に笑顔で話しかけ、少しでも笑ってもらえれば、もうこっちのものだ。試食した人の大多数は、ソースを買ってくれる。やがて、グローサリー側からも、「『クレイジー・ヨシ』がどこまで行けるかを見てみたい」と応援してもらえるようになった。ビジネスは「金儲け」ではなく「人儲け」。支持してくれる人が集まれば、必ずうまく行く。吉田氏は、ソース以外のビジネスも並行してやり始めた。

人生は家族があってこそ〜山あり谷ありの人生を支える家族の存在
吉田氏は「これや!」と思ったものには100%の情熱をかたむけて挑む。この100%の情熱とは、欲しいものを死に物狂いで追い求める情熱、1%のあきらめの気持ちも許さない情熱だ。これまで約40年間連れ添ってきた愛妻リンダさんも、100%の情熱を捧げた存在だという。米国に渡って二年後に出会ったリンダさんに一目惚れした吉田氏は、出会って二週間で求婚。リンダさんが首を縦に振るまで押しに押した。三人の娘にも恵まれ、リンダさんとは仕事で起こったこと全てをシェアする仲。良い時も悪い時も、一緒に乗り越えて来た。ゴルフ場のビジネスが大失敗し、自分のこめかみにピストルを突きつけた時も、家族への愛が引き金を引くことを許さなかった。「わし死んだら、リンダと子供どうすんねん。」家族がいたから、悔しさをエネルギーに変えて、敗者復活戦に挑むことができたのだ。

「絶対にこの恩を返したる」〜恩返しの精神
吉田氏は悔しさをエネルギーに変えて生きてきたが、もう一つの大きなモチベーションは、恩返ししたいという強い気持ちだという。吉田氏の長女が生まれて五日目に、大変な病気になった。感謝祭の祝日にもかかわらず、五人の専門医が朝から晩まで面倒をみてくれたおかげで長女の命は助かった。しかし当時、空手を教えることで生活しており、保険も持っていなかった吉田氏は退院の時に我に返った。治療費を払えるのか。しかし、請求されたのはたったの250ドル。なぜそんなに安いのかと病院に聞くと、貧しい人のために寄付金を集めているのだからと言われた。吉田氏は泣いた。「絶対にこの恩を返したる。」ビジネスを始めたのは、恩返しをするためだった。そして今、吉田氏は小児病院や子どもガン協会などの慈善団体の理事を務め、さまざまなボランティア活動に力を入れている。

周りの人を巻き込む〜一緒にバスを押してくれる人を引き寄せる
情熱は周りの人を巻き込む。MBAの生徒を相手に講演すると、計画性に重点を置かないビジネスのやり方に「夢と情熱しかないのか」とあきれられるが、吉田氏に言わせれば「MBAなんて、ただの統計学」。統計を見て時間をかけて考えているうちに、ビジネスチャンスは逃げていく。それよりも実行。目的地までバスを走らせたいならば、あらゆるリスクについて考える前に、バスに乗って運転し始める。もし止まってしまったら、バスを降りて、後ろから押す。一人の力では動かないかもしれないが、死に物狂いで押していると、不思議なことに一緒にバスを押してくれる人が現れるのだ。 講演の中で最も感動的だったのは、吉田氏と義父とのストーリーだった。リンダさんの父であるブーマーさんは、二人の結婚に大反対。そこには、まだ19歳の一人娘を渡したくないという気持ちだけでなく、太平洋戦争に行ったことによる東洋人への拒否感もあったという。吉田氏を最初は「憎んでいた」というブーマーさん。しかし、ある時、ビジネスの資金繰りがつかず倒産の危機に直面した吉田氏にブーマーさんが差し出したのは、何十年間にわたって貯めた貯金の全て。「My Son(息子よ)、これを使いなさい」という義父の言葉に、吉田氏は涙が止まらなかった。アメリカ人は、情熱のある人に動かされる。吉田氏の100%の情熱は、ブーマーさんさえも巻き込んだのだ。  講演会の最後には、聴衆全員がある実験に参加した。その詳細はこの記事の中で明かすことはできないが、参加者が一体となって「バスを押す力」を体験し、実験が終わると会場は笑いと感動の渦に包まれた。

 

愛する家族、100%の情熱を捧げられる仕事、ボランティア活動や空手を通しての社会とのつながり。これほど満ち足りた人生があるだろうか。人生の限られた時間を、ありったけの情熱を持って生きている吉田氏が「苦労話は、おぼえてへん」というのもうなずける。吉田氏の力強い講演と、人を惹きつけてやまないその笑顔に、一歩踏み出す勇気をもらった。

 

(取材 船山祐衣)

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。