教育の機会を失くした1942年の日系学生
1941年12月、日本軍のアメリカ真珠湾攻撃を機に第二次世界大戦が勃発。カナダはこの直後、日本に対し宣戦布告し、戦時措置法(War Measures Act)を発令した。そして、内閣令により、出生地にかかわらず全ての日系人を「適性外国人」とし、公民権を剥奪した。
1942年1月、太平洋岸から内陸に向けて100マイル(160キロ)以内を「保護地域」と指定し、同年2月には、その地域内に住んでいたおよそ2万1000人の日系人の総立ち退き、内陸部への強制移動を命じた。
UBCでも当時在学中の日系人学生が、ある学生は卒業式を目の前に、ある学生は学年末試験を受けながらも、その結果が出ないうちにキャンパスを去らざるを得ず、強制移動の波に飲まれた。その数76人。
以来、この出来事はUBC史上の影の部分として目を背けられてきた。そして、時間の流れのなかで、いつかは忘れ去られる出来事であったかもしれなかった。

北米西海岸の大学での対応の違い
76人の日系学生への名誉学位授与のため駆動輪として運動を推し進めたのは、グレーターバンクーバー日系カナダ市民協会 (JCCA)人権委員会メンバーのメアリー・キタガワ氏である。
キタガワ氏はインターネットを通し、大戦中に日系人強制移動があったアメリカ西海岸のワシントン、オレゴン、カリフォルニア、それぞれの大学で、1942年在学の日系学生に名誉学位を授与していることを知った。
さらに、同じ北米西海岸の大学とはいえ、アメリカとカナダつまりUBCとでは、1942年当時から日系学生への対応に違いがあったことが分かってきた。
アメリカでは、政府による日系人強制移動令に対し、そのなかに学生を含めることに強い反発が起こった。しかし、それがかなわないと分かるや、各学長は教員を収容所へ送り、学生が勉学を続け卒業できるよう助けた。あるいは、日系人立ち退き地域以外の大学への登録が可能となるよう大学間での申し合わせに動いた。
一方、UBC内では、このような反発や対応はほとんどなかった。反対に、日系学生がバンクーバーに留まることも、UBCで教育を受け続けることも支持できないと日系学生らに告げていた。日系学生のために表立った支持に回ったのは、ほんの二人の教授だけであった。
キタガワ氏自身は、76人の日系学生の一人でもなければ、関係者でもない。しかし、キタガワ氏はこう考えた。
「UBCでの教育を阻まれたことは、ひいては彼らの人生からも、得られたはずのさまざまな機会が奪われたことになる。もし、誰かが声を上げなければ、彼らは忘れ去られてしまう。そんなことがあってはならない。」

名誉学位授与のための粘り強い運動
2008年5月、キタガワ氏はUBCに向けて、1942年にUBCを追われた76人の日系学生に名誉学位を与えるよう要請する手紙を送った。しかし、大規模大学での既成の機構のなかでは、70年前の政治的・社会的な影響を被った少数の学生に対し例外的な措置を取ることは難しいとして、UBCはこの要請を拒んだ。
しかし、この回答はキタガワ氏の思いに拍車をかけるだけであった。そして、夫のトシ・キタガワ氏ら協力者とともにさらに強力に運動を推し進めた。
まずは出来事をよく知ってもらうため、アメリカの大学の関連情報サイトアドレスをUBCに紹介したり、日系コミュニティーからの手紙作り、署名集め、新聞・ラジオなどメディアへ支援を仰いだりと、粘り強く運動を続けた。
そして、運動を始めてから3年が過ぎた2011年11月、キタガワ氏らの願いはついにUBCを動かした。キタガワ氏はUBCから、2012年5月30日に、76人に対して学位ならびに名誉学位を授与するとの連絡を受けた。76人のうち、現存は24人であった。(うち、2人は2012年5月30日までに逝去)。

喜びの授与式を前に
5月30日午前、1942年の日系学生ならびに家族がUBCキャンパス内セント・ジョンズ・カレッジに集った。
ロイ大城 昇氏(90歳)は、この日のため、家族とともにはるばる沖縄からバンクーバーを訪れ、70年ぶりのキャンパスに車椅子で入った。
大城氏は、1942年春、学年末の試験を受けた翌日、アルバータ州南部のシュガービート(砂糖大根)農園へ強制移動させられた。そして、そこでの労働に明け暮れた。カナダ人として生き、勉学、スポーツに励んできたのに、それらを中途で諦めなければならなかったことに失望感を覚えたこともあった。
今年3月、キタガワ氏から電話で名誉学位授与の連絡を受けた時には、驚きとともに、あの時UBCを追い出されたという思いが一瞬よぎったという。しかし、過去の苦い思いは、徐々に喜びに変わっていった。そして、その気持ちを、「1000年に一度のこと」と表した。
ミツ・スミヤ氏(89歳)は、当時、UBCのCanadian Officer Training Corps (C•O•T•C)という軍事訓練に所属していた。しかし、名簿からは名前が消され、軍服を返却、除隊させられた。(ただし、これは当時日系人が軍服を着て歩くことは本人にとっても危険と考えられたことにもよる)。その後、強制労働に同意しなかったため、捕虜収容所で4年間を過ごすことになった。キタガワ氏からの名誉学位授与の連絡には、しばらく言葉が出なかったという。
一方、キタガワ氏にとっても、手を尽くし捜し当てた一人ひとり、あるいは家族に、名誉学位授与を電話で連絡したとき、その感動は言葉に尽くしがたいものであった。伝えるたびに、驚きと喜びの声、本人が生きていればどんなに喜んだかという家族の声が、受話器の向こうから返ってきた。

伝えていかなければならないこと
午後4時過ぎ、UBC校内チャンセンターでの名誉学位授与式は、開会の辞の後、76人の日系学生を讃えるビデオ『Welcome Home: A tribute to the Japanese Canadian Students of 1942』が上映された。引き続き、UBC総長サラ・モーガン=シルベスター氏、日系カナダ人補償請求運動で中心的役割を果たしたアーサー・ミキ氏によるスピーチがあり、さらにオペラ『Memory Song of The Asahi Ball Player』からの歌や、1940年代の流行歌『Sentimental Journey』が会場に流れた。その後、学長スティーブン・トゥープ氏が次のような内容を含んだスピーチを行った。
「第二次世界大戦中の日系人強制収容は、カナダ史上、重大な人権侵害の一つである。UBCとして非常に残念なことは、日系学生はなんら不正を犯したわけではなく、むしろたいへん勤勉であったのにもかかわらず、学内で彼らを守るために立ち上がった者がほとんどいなかったことだ。大学には、人権擁護のためのモデル、人や文化を互いに尊重しあうモデルとしての役目がある。それらを遂行するため、時には『抵抗』も必要だ。
1942年の日系学生への名誉学位授与を通して、次世代、またUBC学生に伝えていかなければならないことは、困難にあっても、立ち上がり、粘り強く、人間として基本的に正しい姿勢を追求していけば、打ち勝つことができるということだ。」
この後、ステージで、順次名前を呼び上げられながら学位が授与された。
最初に、1942年の卒業式に出席できなかった生徒の代理で出席した家族12人が、モーガン=シルベスター総長とそれぞれ握手を行い、学位記を受け取った。
次に、勉学中途となった学生の代理の家族39人が、トゥープ学長からフード(大学式服の背にたらす飾り布)を手渡された。
最後に、黒いガウンを着た1942年の日系学生10人に、トゥープ学長が、肩からフードをかけ讃えた。この間、会場の人々は総立ちとなり、満面笑顔の10人に盛大な拍手を送り続け、この特別な授与式を最高潮に盛り上げた。(76人のうち、二人分を受け取った代理一人、欠席14人)。
モーガン=シルベスター総長は、76人を正式にUBC同窓生と認め、今後は家族を含め、関連施設の利用や催しへの参加を通しUBCとかかわっていけることを述べた。そして式の最後を、76人にこう呼びかけ、締めくくった。『Welcome Home』


(取材 高橋百合)

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