2019年2月28日 第9号

広島・長崎に原爆が投下されてから78年が経つ。被爆者が高齢化し、体験談を語れる人が少なくなる中、「被爆体験伝承者」を養成し体験談を継承していこうとする試みが広島市で行われている。

現在バンクーバーに在住する広島出身の熊谷操さんもその一人。2015年春に「被爆体験伝承者」の資格を取得し被爆の実相と平和の尊さを伝える活動をしている。

今回は寒さが残る2月のバンクーバーで、「被爆体験伝承者」について熊谷さんに話を聞いた。

 

被爆体験伝承者、熊谷操さん。バンクーバー滞在中にここで「伝承活動」を実現したいと語った。2019年2月バンクーバー新報事務所で

 

原爆被害を体験していない被爆体験伝承者

 「被爆体験をした人の話を伝承していくのが『被爆体験伝承者』です」と説明した。「被爆していない人が被爆者の体験談を聞いて、その話を自分なりに理解し体験者に代わってみんなの前で伝えるという役目を担っています」。

 これは広島市が始めた試みで、第1回の募集は2012年(平成24)。熊谷さんはこの年に応募し、1期生として被爆体験伝承者研修を受け、2015年春(平成27)に伝承者としての認定を受けた。研修期間は3年。市が提供するプログラムに沿って、1年目、2年目、3年目と各課題をこなしていく。

 この3年間はかなり大変だったと振り返る。1年目は被爆体験者たちの体験談を聞き、原爆や被爆について講義を受け、体験者と交流する。2年目にかけて受講生は伝承したい体験者を決め、体験者から承認を受ける。2年目は伝承する体験者との交流を通して、その人の体験や気持ちや思いなどを聞く。これを基に伝承していく内容を草稿としてまとめる。同時に語り方、話し方の指導を受ける。3年目は草稿の練り直し作業となる。体験者に物語の細部まで質問し本人になったつもりで講話原稿を仕上げていく。人前で披露する実戦練習を経て原稿が最終的に完成。これらを全てクリアして伝承者として認定される。

 最も大変だったのは講習を受ける時間の都合と原稿作りだったという。「私はフルタイムで仕事をしていたので、3年間年休はすべてこのために使いました。それでも足りなくなった時には仕事の時間を融通してもらって授業を変えてもらったりして」。当時は小学校で教師をしていた。インフルエンザにかかっても年休がないため病欠にするなど、なんとか時間のやりくりをしてようやく到達した3年目の終了寸前に原稿作りに行き詰まり一度はあきらめかけた。根ほり葉ほり、嫌がられるのではないかと思うほど熱心に心情や状況を聞き取って書いた原稿だが、思ったようにできなかったという。

 「『原稿できないから無理です、あきらめます』って言ったんです」と今だから笑って話す。そうすると、当時の市の担当者や同じグループの仲間が「ここまで苦労したんだから頑張って。一緒に修了認定もらおう」と励ましてくれた。「最終的には50人中50番目に滑り込みました」と笑った。

 広島市の発表によると第1期に応募したのは137人。その中で、2018年12月時点で修了しているのは58人、実際に伝承者として活動している委嘱者は56人。しかし2015年の終了時には50人しか修了しなかったと記憶しているという。それほど大変な研修内容ということだ。熊谷さんは挫折する理由を「研修に何度も通わなくてはいけないし、人のことを自分の気持ちとするってなかなか大変だし」。だから体験者が語ってほしいと思う内容を原稿に込めることがすごく難しかったと振り返る。

 

知り合いだった体験者との再会

 熊谷さんがこの人と決めた被爆者は笠岡さんという女性だった。広島県廿日市市でガールスカウトリーダーをしていた時に「怖いなって思っていたくらい上にいた人」だったという。知ってはいたが軽く話をできるような存在ではなかった人が、「研修に行くといらっしゃるから、『えっ、どうして』と驚いたんです」。聞くと、彼女も他の体験者同様、若い頃は話すのをためらっていたが伝えなくてはいけないという思いから被爆体験講話を始めたという。「ガールスカウト時代は怖い人というイメージがあったけど、被爆者と知って話を聞きたいと思いました。それで笠岡さんの体験を伝承させてくださいとお願いしました」。

 笠岡さんは12歳で広島市内の自宅で被爆。両親は爆心地近くに出かけていたため、母親は行方知れずに、帰ってきた父親も死亡した。自身が被爆して苦労したことよりも、この時の印象が今でも彼女の深い所で痛むという。真っ黒になって帰ってきた父は水を欲しがったが、すでに水を飲ませると死ぬという噂があったため水をあげなかった。しかし、もう助からないと知った時、大好きなビールをあげようと用意した時にはすでに息を引き取っていた。水もビールもあげられなかったことが、何もしてあげられなかったことが、今でも悔やまれるのだという。母は8月6日の朝に家を出る時が最後となった。お父さん、お母さんと呼べる人がいなくなったのがつらかったと話していたことが印象的だと話す。「笠岡さんの家族を思う気持ちが私の語っていきたいという思いにつながったことも彼女の被爆体験にした理由でした」。

 

「被爆体験伝承者」に応募したきっかけは母への思い

 広島市が被爆体験伝承者養成講座を開設すると知ったのが何だったか、今でははっきり覚えていないという。ただ当時、母親を亡くして間もない頃だった。「私は母の人生を聞いていなかったなとすごく悔やんでいた時期でした」。どんな人生を歩んできたんだろうと思った時に、もう母には聞けないんだなと。「母が亡くなったことと、母の人生をあまりにも知らない娘だなという思いで結構落ち込んでいたんです」。

 そんな時、この募集を知ったと言う。原爆という大きなことが広島で起こったが「体験者は亡くなっていくんだなって。でも大事なことを伝える人がいるんじゃないかなと思ったんです。母のことは聞けなかったけど、今から聞いたら教えてもらえる話もあるんだなと思って」。被爆者には後世に語り継ぐ人生があるのではないか、「伝えられる話なら私が伝える人になりたい、という思いで挑戦しました」。

 まさしく挑戦となった3年間だったが、2015年4月からは委嘱者として広島平和記念資料館で講話者として活動した。話を聞きに来る人々の理由も感想もさまざま。その中で、「笠岡さんの思いがよく分かりました」という感想をもらったという。「うれしかったですね」と笑う。苦労が報われた瞬間だ。他にも修学旅行で来た平和公園だったが、話が聞けなかったので改めてきたという若者もいた。こうして少しずつ、一歩ずつ、被爆体験は伝承されていく。

 

バンクーバーでの経験も生かして

 被爆体験伝承者になって良かったかという質問に、「良かったと思います」と笑う。伝えていきたいことがある。平和の大切さだ。簡単に口にする言葉だが、現実に継続していくのは難しい。ヒロシマピースボランティアもしている熊谷さんは伝承活動を通して「平和が大事ということを多面的に考えられるようになりました」と言う。「一人一人の力は小さいけれど、かといって何もできないということではないと思う」と語った。

 来年には広島に帰る。帰国後には、また「被爆体験伝承活動」を再開したいという。その時は、「バンクーバーでの経験も入れたい」と話す。戦時中に日系人が受けた強制移動政策だ。根底には差別があったが、きっかけは戦争だった。太平洋を越えたバンクーバーでも無関係の人を傷つけていく。それは80年近く経った今でもやはり深い傷を残したままだ。「バンクーバーでの経験もこれから一緒に話していければいいかなと思っています」と語った。

 その前にやりたいことがある。バンクーバーでの「被爆体験伝承」だ。英語という壁があるが、「一度バンクーバーでやってみたい」と笑った。

 

広島市被爆体験伝承者養成事業
広島市が2012年(平成24)から実施している被爆体験の伝承者を養成するプログラム。被爆者の高齢化が進み、被爆体験を直接語り継ぐことができる体験者が減少する中で、被爆体験や平和への思いを後世に伝えることのできる後継者養成を目的としている。伝承者に認定されると広島平和記念資料館で講話したり、国内外に伝承者として派遣される。
講話に関する情報は広島平和記念館被爆体験講話のサイトを参照
http://hpmmuseum.jp/modules/info/index.php?action=PageView&page_id=14
広島市被爆体験伝承者養成事業については広島市のサイトを参照 http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1525154329974/index.html

(取材 三島直美)

 

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