『二つの歩み』〜日本外と日系人の遺産〜

第2回『家族移民と日系コミュニティーの拡大:20世紀初頭〜戦前』

 

今年開館125周年を迎えた在バンクーバー日本国総領事館ではこれを記念して、総領事館と日系コミュニティーの歴史を、講演者や過去の外交資料、その時代を生きた人々の記憶を通して振り返る6回のフォーラムを1年にわたり開催している。

5月23日に、リッチモンド市スティーブストンの日系カナダ人文化センターで行われた2回目には、リッチモンド市議会議員らを含む約120人が参加した。

20世紀初頭からの日系コミュニティーの急激な発展は、現地カナダ人との間に軋轢を生じ、日系人に対する差別や排斥運動が激しさを増していった。そのような状況下、当時の人々がどう対処していったのか。日系漁師の歴史に詳しい、スティーブストン生まれのジム小嶋氏がコミュニティー(民間人)の視点から、また在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏が日本国政府の視点から、その様子を解説した。

 

 

スティーブストンの日系コミュニティーの発展について語る、ジム小嶋氏

  

ジム小嶋氏の講演

 日系コミュニティーの形成 ―スティーブストン―

 日系漁師として、初のスティーブストン定住者となったのは本間留吉氏で、1883年のことだった。

 1888年には、和歌山県三尾村(現在の美浜町)の工野儀兵衛氏が到着。サケ漁の可能性を見てとった同氏の招きに応じ、同村からの移民が年々増加する。1908年に発効された、後述のルミュー協定が移民数を制限するようになっても、三尾村出身者は別枠扱いとされ、スティーブストンの日系漁師は着々と増えていった。

 またルミュー協定は移民の妻にも制限を設けていなかった。そのため協定発効後は、いわゆる写真花嫁(カナダにいる男性の写真だけで配偶者を決め、日本出国前に結婚手続きを済ませてからカナダに渡った女性)の数が飛躍的に増加する。

 しかし、このような急激な日系人口の増加は、現地の白人らの不安を惹起し、やがて反日感情や様々な排斥運動に結びついていく。例えばリッチモンド市教育委員会は1906年、市内に不動産を有しない家庭の子が公立学校に入学することを禁止、以後23年まで、多くの日系人の子供が通学できなくなる。

 

進むコミュニティーの組織化  

 様々な差別に対処するために、本間留吉氏は日系漁者団体を結成。缶詰工場との価格交渉など、日系漁師の地位向上と労働条件の改善を目指した。同時に、募金活動によって得られた資金をもとに病院、日本語学校や仏教寺院の建設など、コミュニティーの環境整備も進めた。

 また本間氏は、日系移民の選挙権獲得にも尽力した。カナダ国内では当時、BC州だけが日系人に対する選挙権を認めていなかった。本間氏は、地方選挙のための選挙人名簿への登録が拒否されたことを裁判で争い、BC州地方裁判所、さらに州最高裁判所で勝訴する。しかしBC州政府がイギリス本国の枢密院に上告、ここで判決が覆されてしまう。

 結局、日系人に選挙権が与えられたのは、戦後の1949年になってからだった。

  

 

会場には予想を上回る120人が参加。日系人の歴史に対する関心の高さがうかがわれた 

 

漁業権の問題  

 1920年以降、BC州政府は日系漁師の駆逐を狙い、毎年のように日系漁師に対する漁業権の発効数を削減していった。

 これに対し漁師らは、領事館に相談したり、訴訟に持ち込んだりなど、様々な対処方法を試みた。中にはジュン木澤氏のように、BC州北部のスキーナ川で、日系漁師のみが動力付漁船の使用を禁じられていたことを法廷に訴えるため、あえて動力船を使用して捕らえられ、その刑事裁判の法廷で次のように訴える者もいた。

 「私は、自分の無罪ではなく、差別を訴えるためにここに来た。他の人と同じくカナダ国民となった今でも我々は、動力付漁船の使用禁止という不当な扱いを受けている。このような差別的処遇を看過するわけにはいかない。私は、この国の根幹をなす正義が存在していることを信じ、それがなされることを見届けるため、ここにいる」

 翌日、先住民、白人、日系の漁師らで満席になった法廷で、裁判官は木澤被告の主張を認め、日系漁師に対する動力付漁船使用禁止は違法であるとの判決を言い渡した。 最初、現地の文化も生活習慣についての知識もほとんどなく、英語もままならない状態で移民生活を始めた日系人は、努力、不屈の精神、礼節、尊敬の念、また日本人としての誇りといった矜持を持って、コミュニティーをゼロから作り上げていった。

 

岡田誠司総領事の講演

 続いて、在バンクーバー日本国総領事岡田誠司氏が、日系移民に対するカナダ政府の政策に、バンクーバー領事館および日本政府がどのように対応したかを、外交文書などの資料から明らかにしていった。

 

アジア人排斥暴動

 1907年に結成されたアジア人排斥同盟バンクーバー支部は、9月にダウンタウンで集会およびデモを行ったが、これが暴動に発展する。この知らせを受けた森川季四郎領事は、警察に対し日本人街の警備を要請。また日本人には冷静に対応し、暴力を自重するよう求めた。

 また、ちょうどオタワへ向かう途中でバンクーバーに滞在中だった外務省の石井菊次郎通商局長はオタワ到着後、カナダ政府にこの事件の損害補償を要求。カナダ政府も最終的には責任を認め、日本側の請求額1万3000ドルに対し、9千999ドルを支払った。

 

 

総領事館の資料を駆使して、当時の日本国の対応を解説する岡田総領事

 

ルミュー紳士協定

 急増する日系移民と、それに伴う当地での緊張の高まりの問題を協議するため、カナダからロドルフ・ルミュー労働大臣が1908年に来日。林董(はやしただす)外務大臣と会見し、日本政府が1年間の移民数を4百人に制限するよう努力する、いわゆる紳士協定と呼ばれるルミュー協定を結んだ。

 以後カナダへの移民は、バンクーバー領事館からの証明書を事前に取得することが義務付けられ、日本政府が移民数を積極的に管理するようになった。

 

漁業権問題

 当時の日系漁師の間で最も問題になっていたのは、前出の漁業権の発効数削減問題だった。

 日系漁師から相談を持ちかけられた領事館では、河合達夫領事がこの問題を検討、以下のような対応案を東京に報告している。

 まず日本国籍の日系漁師については、イギリスとの間で結ばれていた日英通商航海条約の最恵国待遇に照らし、日本国籍を有する者が、英国籍の者と同様に漁業権を得られないのは条約違反にあたるとし、是正を求める。

 次にカナダ国籍を有する日系漁師については、カナダ国籍を有するものを等しく扱わないのは不当であると、法廷に訴える構えであると伝え、対処を求める。

 この方針に基づき、オタワ総領事館の松永直吉総領事は1926年、カナダ漁業庁ウィリアム・ファウンド漁業局長との協議を行った。

 その時の会話は、総領事館から東京に送られた電文に残っている。それをもとに、岡田総領事が当時の様子を再現した。以下はその概要。

 

松永総領事:BC州政府が日系人漁師の排除を目的として漁業権発行数の削減を行っていることは、日英通商航海条約に反する国際問題である。

ファウンド局長:日系漁師の中で、この条約の最恵国待遇の対象となる日本国籍を有する漁師は少数で、多くはカナダ国籍であるから、問題にはならない。

松永総領事:ならばカナダ国籍を有する漁師には、等しく漁業権が交付されるべきところを、日系漁師だけが制限を受けるのは不当な扱いではないか、日系漁師はこのことを法廷で争うつもりである。そもそも、漁業権発行の権限を持つ水産大臣は、議会が不条理な議決でそれを制限しようとしても、発行すべきだ。

ファウンド局長:議会が制限したいと言えば、大臣はそれを尊重する。

松永総領事:ならば議会が日系漁師に対する漁業権発行を管理するとした証明を、文書で要求する。そもそも、日系漁師は差別されて当然と信じているのか。

ファウンド局長:日系漁師は最高の漁師だ。BC州の漁業の発展は、ひとえに日系漁師の努力によるものだ。しかし、これは政治的な問題であり、私にはどうすることもできない。

 

 結局この問題は法廷に持ち込まれ、最後はイギリス本国の枢密院において、カナダ政府の決定はイギリス憲法と日英通商航海条約に違反するとの判決が下され、日系漁師側の勝訴に終わった。

 

 

パネリストとして、当時の日系漁師について語る江崎光男氏(右)と、バッド坂本氏(左)

 

 

日本人としての誇りを支えに

 最後にパネリストとして招かれた、スティーブストン仏教会理事長バッド坂本氏と、江崎光男氏からのコメントがあった。

 自らも漁師の経験がある坂本氏は、父や祖父から当時はかなりつらい状況だったと聞いているが、いつも彼らは「仕方がなかった」という言葉で締めくくっていたと回想。そこには、自分の力が及ばない出来事に対して思い悩まず、今、自分ができることに集中する割り切りがあった。その達観とも呼べる日本人の気質が、この時代を乗り切る力だったのではないかと述べた。

 また、日系漁師の歴史に関する著作を2冊発表している江崎氏は、日系漁師の強みは、団体を組織するなど、困難に対して一致団結できたことだったと指摘。さらに、缶詰工場との契約についてもきちんと履行するといった正直さ、勤勉さが彼らの評価を高めたことも、この時代にあっても非常に成功した理由だったと述べた。

  

(取材 平野直樹)

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