被災直後に欲しかったもの、それは「正確な情報」。

モノについてはキリがないが、テレビ、新聞も見られない。ラジオも携帯電話も電池切れ。そうなると、「いったいどこで何が起こって、どうなるのか」という、その闇の中の恐怖感は、たとえようもない。「肉親や友達は大丈夫だろうか」それを知る手立てがない、焦燥感がつのる。
日がたつにつれ、電気が通じテレビを見ることができるようになっても映る映像は津波の傷跡、ガレキ、爆発後の原発の姿。現場では目の前の出来事ばかり。被災者の生活を導くような情報はない。私の兄は、義理の父母の行方を探す時、避難所を回り、そして、遺体安置所を回るのが、最も正確な情報収集法であった。それを教えてくれたのは、避難所で暮らす年老いた方であった。また、ほとんど跡形もないような自宅のガレキに避難先がペンキで書かれてあり、その情報を手がかりに探し回った。その途中、知り合いの被災者同士の安否の声の掛け合いや、救援物資の情報などを入手したという。結局はネットより確実な情報は、人から人への口伝えの情報であった。日常のなかでつくられて来たコミュニティの大切さを痛感した。

あの支援の熱気はどこへ・・・。

撮影隊と有名人が、被災地にはごろごろ、という時期があった。いろいろな救援・復興イベントが各地で行われ、被災者を力づけた。しかし、ある時期からス〜と消えていった。  いろいろな事情もあるのだから、これからは、たとえ一人でも一般の人たちの冷めない根強い支援が望まれる。被災地は何も変わっていない。とにかく長期戦。ボランティアもまだまだ必要としている。被災地で「こんにちは、元気ですか〜!」の一声ほどうれしいものはない。ことのほか、必要以上に気遣ってもらう必要はない。被災地外の人に、「自分だけこんな平穏な生活をしていてもいいのだろうか」といったやさしい心遣いをいただくことがあるが、それは間違い。何のプラスにもならない。それより、タブー視せず、何でも聞いてほしい。たとえ大事な人を亡くされた方が、そのことについてお話されるのであれば、遠慮せず、話を聞いてほしい。心にふたをしていたものを取りはらって、口にすることで、どれほど気が晴れることか。とにかく足を運んでほしい。

私のこと、あなたのこと。高橋エツコ。

私は大学卒業後、仙台の乳児院に就職し、0歳の乳児2人(男児)をあずかり、2歳を過ぎるまで、母親の役割をして育ててきた。私は“えっちゃ〜ちゃん”と呼ばれた。仕事だとは割り切れない仲になっていた。そんな時、髄膜炎で生死のはざまをさまよった。職場復帰後間もなく、3.11、続く余震。怖がる子どもたちを抱きしめた。子どもたちに平気なふりをした。私自身は不思議に冷静だった。死を垣間見ていたせいだろうか。そして、命の大切さをあらためて感じた。  彼らの“えっちゃ〜ちゃん”としての担当を離れる時が来る。共に泣き笑いして成長してきた日々のなかで、私たちは思わぬほどの強い絆でつながっていた。少しずつ別れの準備はしてきたものの、別れのその時の感情はとても言葉では言い表せないものだった。この機に、あきらめかけていた“海外へ行く”ということを実行することにした。  あなたも私もカナダでの体験は、目に見えなくとも、私たちの人生の底流となっているに違いない。日本へ帰ればゼロからのスタート。まわりに惑わされることなく、そして、鳥のように高い位置から見てこれからの人生設計を描けるような気がする。

 

(取材 笹川守)

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