2016年8月11日 第33号

 

 

 幕末。これは江戸時代末期から明治維新までの数年間のことを指す。そんな幕末の京都では夜な夜な人斬りが横行、朝が明けると人の死体が道で見つかることも珍しくなかった。維新志士は後に明治維新という大事を成すのだが、この頃は京の町で幕府の重要人物を待ち伏せては暗殺するテロリスト集団でしかなかった。そんな京の都の治安を守る、とある集団がいた。彼らはその腕っぷしだけを買われ、集められた幕末「最強の剣客集団」と謳われ、京にいる維新志士たちの脅威の対象となった。その剣客集団の名は壬生浪士組と呼ばれ、後に新撰組と名を変えることになる。幕末を彼ら抜きでは語れない程有名となるのだが、彼らは一言で言えば「腕の立つ庶民」である。新撰組の大きな特徴としては武士ではなく、元百姓や商人などで構成されていることである。局長を務めた近藤勇は武家の養子ではあるが、元は百姓の出であり、副長の土方歳三は元は薬屋である。士農工商の身分制度がまだ通常だったこの頃、彼らは腕っぷしだけで武士の世界に入り込み、その名を高めていったのである。が、武士への憧れと「所詮武士ではない」というコンプレックスが彼らにはあったのかもしれない。彼らは幕末という動乱の時代を「武士よりも武士らしく生き」、「武士よりも武士らしく死んでいった」。彼らは「武士とは何か」と改めて問う、そんな生き方をしたのだった。

 そもそも新撰組のルーツはどこにあるのか。それは当時は武蔵野国、江戸の牛込(現在の東京新宿区)にある剣術道場から始まった。道場の名は試衛場と言い、後には『試衛館』と呼ばれる天然理心流を教えていた。そこの道場主・近藤周助の養子だった勝五郎(後の近藤勇)とその門下生たちから『新撰組』は始まった。この天然理心流、『新撰組』の使う剣術ということで、その知名度は上がったが、それまでは誰もその名を知らない田舎の剣術流派だった。その頃、この道場に通っていたのが土方歳三、沖田総司、井上源三郎など後の『新撰組』の隊長を務める面々であった。天然理心流はそもそも剣術というよりは古武道に分類され、剣術や居合いだけではなく、柔術や小具足術、棒術などを総合した武術である。当時武士の習う剣術としては北辰一刀流や神道無念流などの名門が人気であったが、この天然理心流は『型』やその動きの美しさよりも実践性に重きを置いている。いわば、平民が戦に借り出された時に生き残るための実戦剣法ともいえた。だがこの試衛館は剣術を学ぶ場だけではなく、若者たちの集う場所でもあった。道場での稽古が終わった後、若者たちは集まり、志などについて語り合ったことだろう。それはいつの間にやら試衛館の門下生だけではなく、他流派の人間も集まる程であり、後に『新撰組』の主要人物たちとなる山南敬介、永倉新八、藤堂平助、原田佐之助もこの時集まった若者たちの一人である。武士ではない彼らだが、毎日試衛館に集まり、武士のように国家(幕府)への忠誠心は持ち、世の中をよくするためにはどうすればいいか語り合ったのではないだろうか。遥か西の方では吉田松陰が松下村塾を開き、そこへ若者たちが集まって同じことを語り合っていた。西と東で同じようなことを語り合っていた若者たちが、後には維新志士と幕府側に分かれ、京都で敵同士として衝突することになるのである。

 文久3年(1863年)出羽国出身の清河八郎の献策により、14代将軍・徳川家茂が上洛する際の警護をする『浪士組』の参加者を募集。近藤ら試衛館の若者たちはこれを絶好の機会と思い、『浪士組』に参加し、上洛する。だがこの清河八郎は密かに尊皇攘夷を唱える者の一人で、将軍の護衛などする気は最初からなかった。京都に着くや否や即座に江戸帰還命令を出し、近藤ら試衛館の者、そして後に初代局長となる芹沢鴨とその一派以外は江戸へ帰還する。この残った者たちで『新撰組』の前身となる『壬生浪士組』を結成することになる。この時に武士への憧れと武士ではないコンプレックスが露になるのが『新撰組』の『局中法度』である。これは総長である山南敬介と副長の土方歳三が考案したとされ、「武士ではない」彼らが「武士らしく生きる」ために守らなければならない厳しい掟となった。この局中法度は最終的には五箇条あり、それぞれ「一、士道ニ背キ間敷事」「一、局ヲ脱スルヲ不許」「一、勝手ニ金策致不可」「一、勝手ニ訴訟取扱不可」「一、私ノ闘争ヲ不許」の五つである。どれも破れば問答無用で切腹に処せらるという鉄の掟であり、それはたとえ局長や総長、隊長も例外ではなかった。現にこの鉄の掟に反した初代局長・芹沢鴨は処罰(暗殺)され、隊を脱しようとした山南敬介も切腹させられている。三番隊隊長だった斉藤一はこうした法度に違反した者を処罰、時には処断する役割も担っていたという話があるくらいである。この法度は武士ではない彼らが武士のように生きるためには必要なものであり、その分とても厳しく遵守していたものである。

 『新撰組』結成当初は「武士ではない者たちの集まり」というレッテルが貼られており、京の人々にとって決して快い歓迎をされてはいなかったが、『新撰組』の名を大きく広める事件が起こる。元治元年7月8日(1864年6月5日)、京都の池田屋で長州・土佐の尊皇攘夷派の志士たちの決起集会を開く情報を『新撰組』が入手し、池田屋を急襲した。沖田総司や藤堂平助(とうどうへいすけ)などの負傷者を出しながら、志士たちの企てていた京の都に火を点け、その間に天皇を拉致するという計画は阻止された。志士側にも死者が多数出て、多数の捕縛者も出たことから『新撰組』が如何に腕の立つ集団かが伺える。この事件より世間の『新撰組』に対する目は大きく変わった。この事件がきっかけになったかどうかは不明だが、それからしばらくして『新撰組』は正式に幕府お抱えとなり、晴れて幕臣となる。幕臣とし正式に認められ、近藤等は初めて世間だけではなく、幕府からも『武士』として認められたかに思えた。だがしかし、幕末も終わりに近付いて来た頃、時代は討幕派に傾き始めた。1868年(慶応4年、後に明治元年と改められる)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが発生し、『新撰組』は旧幕府軍として会津藩と共に参加する。だがこの戦いは旧幕府軍が新政府軍に圧倒され、敗北する。鳥羽・伏見の戦い後、『新撰組』は甲州鎮圧を幕府に命じられ、名を『甲陽鎮撫隊』と改められる。(この頃から近藤は負傷のため、実際の指揮は土方が執っていた)「武士は二君に仕えず」という言葉通り、旧幕府軍が徐々に不利になっていく中、旧幕府軍側で戦ってきた。正に武士の鑑といえるだろう近藤たちには絶望的な現実が待ち受けていた。新政府軍に捕縛された近藤を待っていた処罰は斬首。武士として切腹することも許されず、武士であれば最大の恥辱ともいえる打ち首の後、京都の三条河原で梟し首となる。局長の近藤を失い、土方たちは旧幕府陸軍に加わり、白河口の戦い(4月19日)、母成峠の戦い(8月21日)と次々と戦いに参加。十番隊隊長・原田佐之助、一番隊隊長・沖田総司など次々と仲間を失いながら新政府軍と旧幕府軍の最後の戦いの場とされる箱館・五稜郭まで旧幕府軍として従軍する。年が明け、1869年(明治2年)、この戦いで土方歳三も戦死する。近藤勇の分まで武士として戦い、戦場で死んだ。「戦場で死ぬは武門の誉れ」。そんな言葉を表すような死に方だったのだろう。

 平和な時代であれば、彼らは武士を志しただろうか。もし動乱の時代でなければ、近藤勇は田舎の道場主、土方歳三は薬屋で人生を終えていたかもしれない。動乱の時代が、最も武士を必要としていたこの時代に生まれたからこそ、彼らは武士として「武士らしく」生きることができたのではないだろうか。幕府から尊皇攘夷へと流れていく者が増加していく中、幕府としては幕府への忠義が揺るがない者たちが必要だった。彼らは時代に選ばれ、「平民」から「武士」になった。だが、彼らを選んだのは「新しい時代」ではなく「古い時代」の方だった。「古い時代」に選ばれたがため、彼らのほとんどは時代の流れにのまれ、「新しい時代」に殺されていく。「新撰組」の隊長で二人、明治になっても生き延びた者たちがいる。二番隊隊長・永倉新八と三番隊隊長・斉藤一である。永倉新八は明治以降は杉村義衛と名乗り、剣術道場を開き、そのまま大正4年(1915年)、75歳まで生きた。一方、斉藤一は藤田五郎と名乗り、明治政府が設立した警視庁の警察官となり、警視隊の一員として西南戦争を「明治政府側」として参加している。彼も永倉と同じ大正4年まで生きている。明治になり、武士の時代、つまり剣の時代は終わった。そんな時代でも剣を教え続けた永倉。最終的には敵であった明治政府の警官となったが、治安を守るという「新撰組」の本分を全うした斉藤。彼らは「武士らしく」、つまり戦場で死ぬことはなかったが、彼らなりの武士道を貫き、最後までその精神を忘れることはなかったであろう。武士とは出自ではない。武士道は武士が生まれ持つものでもない。志を持ち、夢を抱き、世の中のために精一杯生き抜く生き様のことを総合して武士と呼ぶのではないだろうか。

 

榊原理人(さかきばら りひと)プロフィール
大学時代、人文科学部にて「太平洋・アジア文化学科」を専攻。
現在、ノースバンクーバー在住。

 

 

 

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