2020年3月5日 第10号

 二宮冨美子さん(東京在住・66歳)は、いつも柔らかく穏やかな物腰ながら、きりりとした精神を感じさせる女性だ。

添削指導を続けられた理由

 冨美子さんの生活の中心には小論文の添削指導がある。通信教育の会社のスタッフとして、高校生が解答した答案を受け取り、より良い答案になるよう指導を行う仕事だ。指導開始から30年目を迎え、担当した生徒は1万人を超える。現在は答案も添削もコンピュータ化され、自宅で仕事が完結するが、ベテランの冨美子さんは会社の依頼で週に1度は出社している。全国の添削指導員からの質問に対応する仕事も任されているためである。

 「添削という仕事は孤独だと思っていましたが、いつからか自分が答案の向こうの高校生と対話していることに気づきました。姿、形は見えませんが、その生徒がこの小論文のテーマについて、何を考え、何を疑問に思っているのか、イライラしているのか、穏やかなのかなど、さまざまなことが字や行間から透けて見えてきます。毎回新しい高校生に出会えることはとても幸せです。そして30年、高校生と向き合ってきたことは、私の誇りであり、生きがいでもあります」

 冨美子さんのかつての夢は国立博物館の学芸員になることだった。大学では美術史を専攻。周りには大学院への進学者が多かった。

 「美術史家の仕事も添削指導と共通したところがあります。一枚の絵から画家の技量、心情を察し、時代背景やその葛藤を読み取らなくてはなりません。学芸員としての仕事はできなかったけれど、添削指導という仕事は、私に合っていたのかもしれません。ここで『〜〜の妻』『〜〜のママ』ではない自分の世界を持てたことが、大学卒業後就職せずに専業主婦になった私にとって大変大きいことでした。多様な人と出会うよい機会ともなっています」

旧友たちとの時間

 さらに自分の役割を取っ払って過ごせる時間が冨美子さんにはある。出身地の広島県・呉で通った高校の、同期生5人との年に1度の一泊旅行である。これまで佐渡や壱岐、軽井沢などへ出かけてきた。かれこれ20年以上続いている。「お互い親の介護世代で苦労話もあるけれど、がんばった話もあって。見栄を張らないでおしゃべりできる素の自分になれる時間ですね」。

即決の技

 友人にはよく取りまとめ役を頼まれる。理由は冨美子さんの決断の速さにあるようだ。「即決は三人の子どもが0歳、2歳、4歳と悩む暇もなかった時代に身につけた技です」。以前は悩みがちだった冨美子さんに「何をくよくよ考えてるの?」と声をかけてくれた夫からの影響もある。「あきらめないからぐじぐじ考えてしまうんですよね。でもあきらめることによって、どこか別の道が開けてくるとわかりました」。かつては夫の転勤や子どもの世話で、自分という木の成長にもどかしさを感じていた。しかしそこで立ち止まり別方向に伸ばした枝葉によって、現役で社会とつながり続けられ、生徒と共に学び成長を味わえる今がある。

親の介護も

 介護に関しては20年のキャリアとなった。夫の父、自分の父を見送り、現在は脳梗塞を患った自分の母(94歳)のいる施設へ出向く。母は絵を描くのが好きだった。その母にデザインの道に進んだ冨美子さんの娘が話しかける。「おばあちゃんから『紫には黄色が合う』って教わったこと、すごく仕事に役立っているよ」。すると母が殊のほか喜んでイキイキと話をし出した。自分が頑張ってきたことは、いくつになっても輝いているのだ。人生にはいろんなことが起こるが、新聞で見つけた「なるごつなる、よかごつなる(なるようになる、大方は良いようになる)」、そして「人間は死ぬまで成長する」の言葉に冨美子さんは勇気づけられている。また一日の終わりに行う日課も頭の中のリフレッシュに役立っている。

 「夜寝る時は、お布団の中で今日一日の楽しかったことだけを思い起こすことにしています。もちろん一日を振り返ると『あれはまずかったな』『どうしよう』ということをいっぱいしでかしているのですが、それらは『すべて明日に!』と先送り。すると、不思議にすぐに眠れます」

ゆっくり歩いて見えてきたこと

 趣味は世界の美術館巡り。昨年のエルミタージュ美術館で有名な美術館をほぼ回りきった。日頃の楽しみは4年前にリタイアした夫と出かけるゴルフや散歩だ。こうして夫婦でゆっくり歩くようになって初めてわかったことがある。「近くの公園にカワセミ(青緑色の美しい小鳥)が生息していたんです。これまでも公園でおじさま方がバズーカ砲のようなカメラを構えているのを目にしていたのに、カワセミの存在に気づいていなかったんですよ」。そして忙しく働き詰めだった夫が実はのんびりした人だったことにも気づいた。カワセミが気に入っている夫の誕生日に冨美子さんは鳥の図鑑をプレゼントした。発見はまだまだ続きそうだ。

(取材 平野香利)

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。