プロ・スノーボーダー渡辺雄太さん

 

2001年4月、漠然とプロスノーボーダーになりたくてカナダに来た若者が、広大な自然に出会い、その魅力に取り付かれた。現在はウィスラーに住み、一人娘の父親でもあるプロ・スノーボーダー、渡辺雄太さん。今もなお、果てしなく広がる大自然を相手にプロスノーボーダーとしての可能性を追求し続けている。

  

Photo by Tempei Photography

   

Photo by Tempei Photography

 

 カナダのウィスラー。バンクーバーから2時間ほど北上したこのスポットに、毎年、多くの若者がスキーやスノーボードにやって来る。初めてカナダに来た時には、渡辺さんもそんな若者の一人だった。

 プロ・スノーボーダーには、大会に出て良い成績を残し、その結果、賞金を稼いだり、スポンサーからの契約金で活動する者も多いが、渡辺さんはウィスラー周辺の山々やアラスカなどで、自分の滑りを映像や写真に残し、雑誌やビデオなどで紹介する。そのきっかけになったのは、初めてカナダに来た年に、Mt. Fissile(マウント・フィッサイル)に行ったことであった。

 「初めてフィッサイルに登ったのは2000年、僕が初めてカナダに来た年でした。ウィスラーのシンフォニーというリフトを降りてから4時間程歩いた場所、スキー場エリア外(バックカントリー)にあるところです。避難小屋のようなキャビンがあり、バックカントリー愛好家に人気のスポット。山の斜面は比較的急で、いくつか滑れる斜面があるのですが、どれを滑るにも必ずちょっとした登攀(トウハン)があります。つまり両手を使ったクライミングをしなければ、滑ることができないので、ただのレジャー気分で行ける場所ではないということです。今でも毎年一度は滑りに行く山なのですが、どんなに自分の経験を積んでも、フィッサイルという山には威風を感じます。

 当時、バックカントリーというものに興味を持ち始めていた自分は、知識がないままでは何も始まらないと思い、雪崩講習を受けました。その講習の先生が、フィッサイルに連れて行ってくれたのです。初めての本格的なバックカントリー、野外での宿泊、急斜面での登攀とスノーボード。僕にとっては全てが新鮮で刺激的でした。そして何よりも忘れられないのは、ウィスラー・ビレッジに無事下山した後、麓のバーで飲んだビールです。その時のシュワーっていう爽快感と虚脱感が今でも忘れられません」。

 しかし、当時スノーボードでプロを目指すということは、競技者であることが一般的であった。特に2000年という年は、その2年前に初めて長野五輪でスノーボード種目、ハーフパイプが採用された年である。ハーフパイプは円形を半分にカットしたような形をしていて、そこから飛び出してジャンプの難易度などを競う得点競技である。渡辺さんも最初は、ハーフパイプでプロを目指していた。

 「プロとしてやっていきたいという気持ちはカナダに来る時に決めてきました。ただ、当時はハーフパイプの選手としてプロになることが目標でした。それが、先ほどお話したフィッサイルのような体験を重ねるうちに変わってきました。ハーフパイプのプロではなく、バックカントリーで滑り、映像や写真の被写体になることを仕事とするプロを目指すようになったのです。2年目は友達とゲレンデからアクセスできるバックカントリー、撮影の対象となる見栄えの良いロケーションで片っ端から撮影しました。3年目はさらに良いロケーションを求めて、ゲレンデ以外の場所からアクセスするバックカントリーに入るようになりました。それにはスノーモービルが必要になりますが、当時スノーモービルは限られたプロライダーだけが使用する贅沢品。背負うリスクもグンと上がります。でも、その時はスノーモービルを始めることでしか前に進めない気持ちになっていたので、すぐに仲間と三人で資金を作りスノーモービルを用意しました。プロの現場に勢いだけで入り込んだようなものです。当然ながら、実力主義の北米ですぐに通用する動きはできませんでしたが、積極的にこちらからカナダのプロダクションにアプローチしたりしているうちに話題性だけは上がり、少しずつ雑誌で取り上げられるようになっていきました。珍しさ先行の出世ですが、やってみるものです。露出が増え、スポンサーも見つかりました。

 順風満帆と言いたいところですが、そうもいきません。スノーボードの用具支給という、セミプロのような状況が、その後数年続きます。これは今のスノーボード業界が抱えている問題といってもいいかもしれませんが、このセミプロという状況から抜け出せずに辞めてしまう人がとても多いのです。僕も気が付けば、20代半ばを過ぎていました。まだまだプロを目指したい気持ちは変わらなかったのですが、スポンサーとも相談した結果、一度身軽になり、自分がやりたいことを一つずつやっていく、と決めました」。

 それまでの渡辺さんがやっていたことは、スノーモービルを使って雪庇(せっぴ)などにアクセス。そこからシャベルでジャンプ台を作って、豪快なジャンプやトリックを見せることだった。そして、それがスノーボードの撮影の主流でもあった。スノーボードのプロは、大会で活躍するプロと映像を残すプロに分けることができるが、映像の方では、そういうスタイルが主流だった。だが、渡辺さんがやりたかったのは、自分の足で山をアクセスし、自然のままの山を滑り、それを映像なり写真に残すことだった。そう、彼がカナダに来た初めての年に体験したことをやりたかったのだ。

 「向かった世界は山の世界です。初めに戻ったとも言えますが、今度はもっと自分の足を使って、登りを重視したスタイルのスノーボーディングです。登れる場所が増えれば、滑れる場所も増える。これで、散々滑ってきたウィスラーエリアの山の見方が、まるで違うものになりました。視点を変えると滑りのスタイルも変わり、目標が次々と浮かんできます。そしておもしろいことに、プロを目指す道程としては一歩退いた場所にいるはずの自分に、憧れだったスノーボードのフィルム・プロダクションから声がかかったのです」。

 渡辺さんが参加したカナダのフィルム・クルーは、ハートフィルムズと呼ばれ、ウィスラーにホームを構えるプロダクションズだ。彼らの撮影舞台は、アラスカやウィスラー周辺のバックカントリーだ。

 「今年で、新しいクルーに動いてから6年目となりますが、その間に新しいスポンサーも決まり、今では契約金もいただき、プロとしての活動ができるようになりました。『自分の脚で登って滑る』スタイルの経験が活かされ、他のプロ・スノーボーダーとは少し違う色で自分の滑りを表現できることが評価に繋がっているように思います。

 プロとしての活動が始まってからはメーカーのサポートによって、さらに露出のチャンスが増え、世界中を旅しながら滑ることができています。ただ、プロといっても僕のような立ち位置では、まだまだ収入も多くありません。活動をさらに良くしていくために、スノーボードで稼いだお金をつぎ込んで新しいことをやっています。だから、当然ながら家族を養うために、他にも仕事をしています。冬はレストランで鉄板焼きのシェフ、夏は見習い大工です。ウィスラーには僕のような生活をしているアスリートが周りにも沢山いて、友達や仕事の仲間が応援してくれるからこそ、活動が続けられるわけです。リゾート地でありながら、ローカルで活動を続けるアスリートにとっての環境が整っている点も、僕がウィスラーで活動している大きな理由です」。

 このようなプロ・スノーボーダーの仕事は、危険と隣り合わせだ。実際に過去に何人かの有名なプロ・スノーボーダーも雪崩により亡くなっている。また、怪我も多い。一児の父となった渡辺さん、家族の心配も計り知れないだろう。

 「世帯を持ちながらプロスノーボーダーとして活動を続けるには、家族の理解が必要不可欠ですが、もちろんそう簡単ではありません。正直に言うと、家族に心配をかけたくないのであればこの活動を辞めるしかないと思います。だから、家族には心配をかけているということを素直に受け止めつつ、できる限り自分の滑りに集中するしかありません。やはり独り身の時よりも滑りに集中できる時間は減りましたが、家族というかけがえのないものや、社会的な責任を背負うことから生まれてくる、新たな考えや滑りの表現とかを、楽しみながらやっています。いつも苦労ばかりをかけてしまっている奥さんには、とても頭が上がりませんが、こうやって活動できているのは、家族のおかげだと思っています。この場をお借りして「ありがとう」と言わせてください。いずれ成長する娘が、お父さんカッコイイと言ってくれなければ、家族一緒に滑る事もできませんからね」 。

(取材 飯田房貴/写真提供 渡辺雄太さん) ※写真は今年の春、世界最高峰の斜面を求めて行ったアラスカで渡辺さんが撮影

 

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