どの国も都会を離れた土地には高層の建物が少ない。 人が生活するための一戸建の住宅が主となり、私が住むサンシャインコーストの海沿いにあるいくつかの街々にも高い建物は皆無に等しい。ペンダーハーバーの 出島のような私が暮らす小島にも、あるのは森に埋もれたように点在する木造の一軒家ばかりで、ほとんど例外なく動物を飼っている。

馬や猫も多いが、やっぱり一番見かける動物は犬で多種多様。どの犬も家を守る責任感に燃えているようにみえる。 はじめは吠えついた犬も二度三度と顔を合わせる内に、 「何だあんたか・・・」と云うように、旧知のような表情を見せてくれる。何とも犬とは義理がたい動物だと思う。

島の南の方にある我家からキツツキが樹をたたく音を聞きながらダラダラ坂を東の方角に下ると小さな入江がある。 小石を敷きつめたような浜辺には長い年月の間に打ち上げられた大きな流木が、まるで海を眺めるための観覧席のように横たわっている。 家からブラブラと坂を下ってこの浜辺につくと私はいつもこの丸太に 腰かけて一服し、ほとんど波もないマラスピナ海峡を眺める。 悠然と空を舞う白頭ワシを見上げるのも楽しみで、時間が気がつかない内に過ぎてゆく。

いつの頃からかこの浜辺で必ずと云ってよい程会う犬がいる。ゴールデンリトリバー種の若い雌犬で、この浜に近い家で飼われているらしいこの犬の名前はKATE(ケイト)。ほとんど一日中この犬は、ある時はテニスの黄色いボールをくわえ、 ある時は棒きれをくわえて誰もいない浜辺で遊んでくれる人がくるのを待っている。

格好の遊び相手とみられた私の足元にボールを置いて海に向かって投げてくれと催促する。つかまったら最後しばらく付き合わなければならない。でも私の気嫌 が良くない時もあって遊びに応じられない時、彼女はそれを察したように「まあ、いつでもイイからネ・・・」と 云うような顔で私のそばに座って海を見ている。 そんな姿を見るといじらしく感じられて、つい又立上ってしまう。

半年程前から必ず決った時間に家の前を通る犬がいることに気がついた。シェパードのような姿をした白い毛の成犬である。朝の7時と夕方7時の1日2回、我家の前の人通りもほとんどない道を 南の方から北に向って歩き、1時間もすると又北の方から歩いてきて南に向う。トボトボと云う表現がピッタリの一人歩きである。左右に目を配る訳でもなく、2メートル程前方の地面を見すえて考えごとをしながら歩いている風情であった。

それとなく人にきいてみたら、やっぱり私の予想通り目的があって歩いていることがわかった。名前も知らないその犬は私の家から更に南西の方角にある海岸の 家に飼われている犬だった。半年前に子供が産まれ、その子犬が私の家からしばらく北の方へ歩いた家にもらわれていったらしい。以来、この母犬はその子犬に 会うために雨の日も風の日も決った時間に家を出て、ほぼ1キロの道のりを歩いて子犬をたずねてゆくことを知った。往復2キロ、それも朝晩の2回である。

唯、子供に会いたい一心のこの母犬の頭の中には多分人にもらわれていったかわいい子犬の姿しかないのだろう。だからその子犬のところに着くまで廻りを眺め る余裕などは全くないのだと思う。ある時その話をきいて、この母犬が無性にいじらしく感じられ私は声をかけてみた。「毎日大変だネ、お母さん・・・」しか しチラッと私を見ただけのその母犬の歩調は全く変らなかった。ただひたすら、いとしい子供に会うこと。そして子犬と水入らずのいくばくかの楽しい時間を過 ごすこと・・・。それだけを考えているのだろう。
母と子は会ってどんな話をするのだろう。イヤ、犬だから会話はなくてもっぱら心を通わせるのはスキンシップだけなのかも知れない。そして時計も持たない母 犬が、子犬との楽しいひとときの「面会時間」をどうやって切り上げるのだろう。その時の母犬の気持を思んばかると何だかたまらなくなる。本当なら一緒に暮 らしたいのだろうに・・・。

ある秋の日の夕暮れ。私は偶然この母犬が「子犬がもらわれていった家」の庭から出てくるのに出合った。子犬と二度目の面会時間が終ったのだろう。母犬は何 度かうしろを振り返るようなシグサをしたあと南に伸びる島の道をいつものトボトボした足どりで歩きはじめる。西に傾いた秋の陽が犬の陰を長く道におとして いる。その母犬のあとをついてゆくように歩きながら私はこの母子の犬の幸せを祈った。 サンシャインコーストの夕陽が母犬の白い毛をひときわ燃えるように赤く染めて落ちてゆく。

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