16年前に日本からバンクーバーに移り住んだ私は、人と「自然の濃さ」が見事にマッチしているバンクーバーが、益々好きになって、スケッチブックを片手に海辺や山裾を毎日のように歩き廻っていた。
時には釣竿をかついで出かけ、スケッチのかたわら川辺で見事なサーモンを釣り上げたりして、身体が緑に染まるようなうっそうとした森の中での昼寝に時間を忘れたこともあった。

日本での魚釣りには少々自負するものがあったけれど、この地でのフィッシングは右も左も解らず、当地での魚釣りの先輩U氏に教えを乞うことが多かった。
魚種は明らかに日本よりは少ないものの、釣り人口も日本よりはるかに少なく、釣行そのものに時には自然の驚異と向き合うことになる一種の緊張感があって、 私は益々魚釣りにのめり込んでいった。ロックコッドは、日本で云えば大メバルのような岩魚で刺身に煮魚に絶品だった。エグモントに出掛ければ必ずなにがし かの獲物を携さえて帰り、それは食卓を賑わしてくれた。

秋も深い10月の霜が降りる頃、私とU氏は何度目かのエグモントへの釣行をした。空は澄み切って、一点の雲もなく漁港の桟橋にアグラをかいて、竿の穂先を見つめていると長かった日本の生活をいつも思い出した。
その思い出は良きにつけ、悪しきにつけ、まどろむような回想の時間でもあった。
その日は、何の加減かわからないけれど、コッドの強烈な当りは皆無だった。
三時間ねばった挙句、私はゴロンと桟橋に横になり群青色に晴れ上がった空を見ていた。カメラマンの用語で「ピーカン」と云うピースの缶のような空の色を例える言葉を思い出していた。

その時、私が転がっている浮桟橋に、コトコトと云う小さな船外機の音をたてながら一隻の小船が近づいてきた。起き上って見ると明らかに原住民とおぼしき色 の浅黒い青年が乗っている。赤いタータンチェックのオープンシャツに黒い野球帽のイデタチが青空を写した水に映えていた。
私の目の前でボートが止まり、青年が「何か釣れたかい?」と一言。
顔立ちも彼のルーツである東洋を物語るようで、ツイ私も心がなごんでグチを云う。「今日はダメだよ。バンクーバーから来たのに全然釣れない。
坊主だ坊主」。日本の釣り人は釣果がゼロの時、頭をなでながらこんなことを云うのだが、勿論彼の青年にわかる筈もなく、青年はニヤリと笑ってボートを操り去っていった。それから小半時。再び浮桟橋に転がってまどろんでいた
私の耳に又あの小さなボートのエンジンの音が聴こえる。
見れば先刻の青年が、港の岬を廻ってかなりのスピードで近づいてくる。
そして不思議そうに見ている私のそばにボートを着けて、私の足許に五つ六つの立派なコッドを放り投げてよこすではないか。
呆気にとられている私が口を動かすいとまもなく、ニッコリ笑った青年が一言
「FOR YOU!」ロクに礼の言葉も発せずにいる私の前から、青年が軽く手を振ったかと思う間もなくボートは岬を廻りエンジンの音がいつしか山間に消えていってしまった。

察するところ、この青年は遠くから釣りにきて、一匹も魚が釣れない私を気の毒に思って一旦家に戻り、蓄えてある魚をボートに積んで再びどこの誰とも知れない「獲物のない釣り人」に届けてくれたのだろう。
聴くところによれば、サーモンやコッドは彼等の主食だと云うではないか。
私は、渡すべきお礼の品もなくあるのはオニギリだけ。
満足に礼も云えなかった自分を悔んだ。
バンクーバーに帰る車の中でその日のこの出来事を何度も噛みしめるように思い出した。思い出している内に、いつの間にか「自分の労力には必ず何等かの代償」を求める今の世の中と比べている自分がいた。
「比べまい、比べまい」と思ってもそれは断ち切れないままに続き、サンシャインコースト・ハイウエイの夕暮れが次第に目に潤んで辛い運転となった。

それ以来サンシャインコーストと聞くと、この出来事を必ずと云って良い程想い出す自分だった。そして今、私はそのサンシャインコーストの住民となって二年目の秋を迎えようとしている。

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。