夫婦で二人三脚

海外に出たきっかけは、大学卒業後「これからは国際社会」と当時の通産省の方から渡米を勧められたことだった。海外への個人渡航が簡単にできなかった1958年(昭和33年)、ようやく書類を揃えてニューヨークへ渡ったものの、招いてくれた貿易商が1年ほどで事務所を閉鎖するなど予想外の境遇を経験。「経済面も含め私の人生の中で、最悪の状態だったと思います」と話す。
そんな中、ニューヨーク日米合同教会に通い、集まりを通して出会った恵美子さんと61年に結婚。教会員の紹介で当時の日本鋼管ニューヨーク事務所に応募し、現地社員として採用された。
さらに向上を求めて、ニューヨーク大学ビジネススクール(大学院)の夜学に入学。レポート提出が毎週の課題だったが、当時は手動タイプライターの時代で、一度間違えて打つと始めからやり直さなければならなかった。レポートのタイプを手伝ったり、出張の際には替わりに講義に出てノートを取ったのは恵美子夫人。代理出席が認められていた当時、英語が達者な恵美子夫人のこうした協力が林氏を支え、現在に至っている。

駐在員時代
稀にも正社員として採用され、大学院卒業の翌年日本の本社勤務となった。北米滞在はニューヨークに2回合計14年、バンクーバーに2回合計11年と長い。
74年、バンクーバーに事務所開設準備のために訪れ、引き続き駐在員として滞在。ダウンタウンのベントール・センターに開いた事務所は、当時できたばかりの高層ビルとその景色の美しさで、東京本社でも話題に上ぼった。
2度目のバンクーバー滞在は83年から89年までで、当時は日本企業によるバンクーバー進出の全盛期だった。バンクーバー事務所の所長に就任し、日加経済人会議の現地の日本側責任者として、日本経団連やカナダ政財界にもつながりを持ったことも、その後の活動に生かされている。

募金活動に関わる

93年に退職した夫妻はバンクーバーへ移住。最初の数年は世界各地への旅行、スキーやゴルフを楽しんだが、その直後から日系社会と深く関わるようになった。実は89年に胃がん摘出手術で命を取りとめた時、退職後に人の手伝いができたらと考えていたのだった。
そんな折、ロバート番野氏とゴードン門田氏から、日系ヘリテージセンター建設資金の募金活動の誘いを受けた。現役時代の人脈を活かして経団連の知り合いを訪ねたり関西方面へも出向き、現地ではバンクーバー貿易懇話会(現バンクーバービジネス懇話会)各社からの協力も得ることができた。
BC州や連邦政府からの補助金、たくさんの個人や日本・カナダの企業が募金に協力し、98年に新さくら荘、00年に日系文化センター・博物館、02年に日系ホームが完成した。「88年にカナダ政府による日系カナダ人に対する謝罪があり、補償金交付の実施とともに、日系コミュニティーのための施設建設に向け、たくさんの人がボランティアとして活動していました。私はそこに入れていただいただけのものです」と貢献した人々への敬意も忘れない。

日本語での医療情報を

かつての駐在員時代と比較すると、日本語を話す医者が少ないことが退職移住後気になり、1990年代後半に知人の二世医師に相談した結果、田中朝絵医師を紹介された。
2002年頃より十数人の協力者と共に種々検討したが、診療所の設立・運営は医者と資金不足のため断念し、医療に関するセミナー、カナダで生活する上で必要な医療情報を提供する懇談会の開催を行うことを目的とした日加ヘルスケア協会を2004年に設立。現在年間10回前後のセミナー、懇談会を行っている。

日系人とのつながり

駐在員として長い間北米に滞在し、退職移住後は当地の日系コミュニティーに深く貢献している林氏だが、日系人とのつながりはニューヨーク時代からできていたようだ。
ニューヨークの日米合同教会で一世や二世の日系人から世話になりながら、恩返しができないまま、その人たちが亡くなってしまったことが気がかりだった。当地ではバンクーバー日系人合同教会へ通い、80歳代や90歳代の一世たちに出会い、カナダの日系人の方がアメリカの日系人よりも大変な経験をしたことを知った。夫妻は当時パウエル街にあった『さくら荘』や『クーパープレース』に入居していた日系のお年寄りに食事を作って持って行ったり、医者や買い物に連れて行ってあげるなど、親身になって奉仕した。
現在ビクトリア・ドライブにあるバンクーバー日系人合同教会が、かつてダウンタウンのパウエル街(現在のバンクーバー仏教会の敷地)に教会堂を所有していたことも知った。第二次世界大戦中の日系カナダ人・日本人の強制移動により、カナダ合同教会の管理下に置かれたこの教会堂は、戦後、教会員の了解なしに売却され、売上金も渡されていなかった。具体的な進展のない状態だったが2009年、カナダ合同教会BC州支部の総会で議長が過去の過ちを謝罪した。同教会日本語部の役員会議長を務めていた林氏は、当時を知る二世の生存者らと、この歴史的出来事を受け止めた。
今回の叙勲を「コミュニティーの皆さんに与えられたものです」と代表して受け取った林氏は、大先輩らが苦労して築いた日系社会の中で、今後もできることをしていきたいと話している。

(取材 ルイーズ阿久沢)


林光夫(はやし・みつお)氏

長野県飯田市駄科出身。飯田高松高校を経て中央大学経済学部およびニューヨーク大学大学院ビスネス・スクール卒業。1958年12月渡米。貿易商に勤務後、NKK(旧称:日本鋼管株式会社、現:JFEスチール)ニューヨーク事務所に入社。本社勤務、バンクーバー事務所(2回、2回目は所長)、子会社・NKリース社北米支社副社長の勤務を経て93年バンクーバーに退職移住。
日系文化センター・博物館会長・理事、日系プレース基金理事、日加ヘルスケア協会副理事長(創立者の1人)、ブリティッシュ・コロンビア日加協会理事、茶道裏千家淡交会バンクーバー協会会長、バンクーバー日系人合同教会日語部役員会役員(2012年3月まで議長)、バンクーバー白門会名誉会長、日系コミュニティー合同新年会実行委員会副委員長などを務める。2007年に外務大臣賞を受賞、2012年4月に旭日双光章を受章。

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