とってもおてんばだったの
東京で生まれ、にぎやかで楽しい家庭に育った角さんは、小学校を卒業すると子どものいない姉夫婦の住む神戸に移り、神戸女学院に通った。その姉が小原流の教授で家で教えていたことから、生け花を始めたものの「私はおてんばでね、男の子みたいだったの。だからお花なんて興味なかったのよ」と笑う。
それでもお花との縁は切れず、戦後、結婚して東京に住んだとき、安達式挿花(家元付き野坂瑛潮教授)の門下に入った。どんどん上達したものの「バラは好きだけど野花は嫌い」などと発言して注意されたこともあるという。

 

夫を幸福にしてあげたい

戦争中、島根県の大社に疎開していたときに、洋裁の先生から紹介されたのが角久寿(ひさとし)氏だった。カナダ生まれで戦前に明治大学に留学し、そのまま帰国することができなくなっていた久寿氏は戦後、英語力を買われて在日米軍の仕事をしていた。
結婚して東京で暮らすようになった夫妻は3人の子どもに恵まれたが、一番上のエレンさんが小学校に入るころ、子どもの教育を考えカナダに渡ることを決心した。
「主人はカナダを離れてから17年。やはり両親のいる自分の国に帰りたいでしょう?それまで私は幸福だったから、今度は夫を幸福にしてあげたいと思って決断しました」
このとき、カナダに行くならぜひ免状を持って行きなさい、という野坂先生の強い勧めで教授の免状を取得。初代家元安達潮花先生から、澪潮(れいちょう)という名をもらった。安達流が統合され家元が娘の安達瞳子先生になってからは主任教授の資格も取り、京瞳(きょうとう)という名ももらったが、澪潮の方を好んで使っているのだという。

 

我慢して良かった。人の苦しみがわかるから

久寿氏の両親は戦前はペンダー島で材木業を営んでいたが、戦争中の強制移動後はトロントに移り、クリーニング業を経営していた。一家はまず両親の家に同居。両親にとっては期待をかけた長男が戻ってきてくれ、うれしい出来事だった。ところが戦争中に両親が経験した強制移動による大変な苦労で残ったしこりや、兄弟夫婦たちと意思や気持ちの疎通がうまくいかないなど、長い年月を隔た後の同居にはさまざまな苦悩があった。手に赤ぎれが出来るほど働きながら、泣きたくなることばかり。ここでの生活が一番辛い時期だったという。
「でもね、あのとき我慢して良かったと思ってるの。だからこそ今、人の苦しみがわかるのね」としみじみ語る。生徒さんを自分の子どものように扱い、日本から来た若者の世話をする。そんな面倒見の良さ、人を思いやる気持ちは昔の経験を通して身に着けたものだ。

 

パウエル街で店を経営していた頃

1年半後、久寿氏が日商岩井バンクーバー支店に職を得たことから、一家はトロント生活に別れを告げた。このころから生け花を教え始めるようになり、1958年にはパウエル街に『エバグリーン』という店をオープンした。
久寿氏が作った陳列棚に置かれた商品は、日本の美術品、陶器、着物、のれんなど。棟方志功の版画、芹沢カレンダー、後半はカナダ人作家の作品も置いた。7、8年前生徒のひとりがソルト・スプリング島に引っ越した際、島に住むアーティストからエバグリーンという店を知っていると言われ驚いた。店にはさまざまな人が集まり、サロンのような雰囲気の時代もあったのだ。
接客や生け花クラスの合い間には書道にも励み、作品がハリウッド映画や刊行物、商品のロゴとして使われた。背中と胸に墨で書いた言葉が面白いTシャツは、約15年間パウエル祭で隣組への寄付金のために販売された。
「私の店は美浜屋さんの隣にあって、並びにはあきレストランや隣組がありました。その頃はパウエル街にもまだ日本人経営の店がいくつかありましたね」と懐かしそうに語る。35年間続いた店は、1993年に閉店した。


夫婦仲が悪いと花が落ち着かないのね

バンクーバーに来てから、教会や集会場など多方面から花を生けて欲しいという依頼が増えた。生け花が出来る人はほかの流派でも助け合った方がいいと考え、1965年に故門田道子さんとバンクーバー生け花協会(VIA- Vancouver Ikebana Association)を創立。その後草月流のボイコット清子さんも加わった。
現在のVIAは5流派(池坊、華道すみ、山月、草月、小原)からなり、会員数は86人。毎年恒例の春の生け花ショーのほかに、さまざまなイベントに協力している。
生け花を教えて55年。中には40年以上習っている生徒もいる。すでに教授の免許を持って教えながら、VIAの運営に関わっている人もいる。
「みんな私の娘のようなの。花が落ち着かないときはすぐわかるわね、家庭が不安定なのじゃないかと。そんなときは、だんなさまを第一にしなさい、ご主人を立てなさいと教えてあげるの。昔風のことだけど、とってもいいことよ」

 

心洗われる清らかさとやさしさ、明るさ
華道すみのクラスでは、材料の中から自分で選んだ枝や花を今まで学んだ型を応用しながら生けてゆく。どの流派も線というものを尊重するが、特に華道すみでは植物の線を生かそうとする。春のショーでは少なくともひとつは芽吹き前のメープルの枝を何本も使う作品を出展している。
植物の組み合わせ、枝や花の配置、流木や大きな石などの物と共に置いてみるなど、いつも生け花について考えているそうで、生けにくい花器や篭にも日々挑戦している。
生徒によると「先生の両腕と言える存在のバーバラ・ジェイムスさん、カズ・タカハシさんが生ける花はとても素晴らしいものです。そこに先生の手が少し加わっただけで、また一層良くなります。先生の生け花には、心洗われる清らかさとやさしさ、明るさがあります。そこに一歩でも近づきたいと私たちは今後もますます精進するつもりです」と話している。

(取材 ルイーズ阿久沢)

 

角 澪潮 (すみ・れいちょう)

華道すみ家元。本名:角京子。東京生まれ。1956年、カナダ生まれの夫、故久寿(ひさとし)氏と3人の子どもを連れてカナダに移住。安達流教授。1958年から35年間、パウエル街で『エバグリーン』を経営。1965年、バンクーバー生け花協会(VIA)の設立に関わった。1999年、安達流から独立して華道すみを創設。現在12人の生徒がいる。生け花歴55年。バンクーバー在住。3人のお子さん、孫6人。ひ孫4人。

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