2017年10月12日 第41号

日系女性企業家協会(JWBA)が設立20周年を迎え、それを記念する講演会が9月28日、バンクーバー市ダウンタウンのロブソンスクエアで開催された。用意されていた175席は満席となり、ベンチ席が追加され約200人の聴衆が会場を埋めた。講師を務めた、岡井朝子在バンクーバー日本国総領事と唐沢良子氏による講演の概要を紹介する。

 

岡井総領事

 

岡井朝子在バンクーバー日本国総領事
「変わらぬ思い29年間外交官として追求してきたこと」

 講演タイトルでは29年間となっていますが、私には高校2年の時に外交官になりたいと思ったときから、実際は35年間持ち続けている変わらぬ思いがあります。高校2年生の時、ノーベル財団主催の青年交流プログラムに日本代表として参加しました。ストックホルムで、ノーベル賞授賞式や市庁舎での晩餐会、受賞者の講義を聞くなどのプログラムです。私は、日本代表として、日本についていろいろな質問を受けたのですが、思うように答えられなかったのが悔しかった。その時思ったのは、国としての日本の印象は日本人との接点を通じて作られるので、自分が日本の良さをもっとうまく海外の人に伝えられたら日本の印象をもっとよくできる、ということです。そして、それができる職業に就きたいと思い、外交官になろうと思いました。それが今から35年前で、その時から現在まで全く変わらぬ思いを持っています。それは、国際社会における日本の影響力、貢献力、発信力を高め、大きな存在感を確保するために力を尽くしたいということです。これは外交官としての人生を通じて一貫して変わらぬ思いです。

 

国際協力に携わって 

 私は平成元年に外務省に入省しました。その3年前に男女雇用機会均等法が制定され、私は女性20番目のキャリア外交官です。キャリアの7〜8割は国際協力や援助といった分野に携わってきましたので、その分野に関しては非常に思いが強いです。

 1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は国際社会に復帰、1954年にコロンボプランという国際機関に加盟し技術協力を始めました。これが政府開発援助、ODA(Official Development Assistance)の始まりです。日本のODA実績は、70年代と80年代を通じて増加し、1989年に世界最大の援助国になりました。2001年から徐々に順位を下げて、2007年に5位、2015年はかろうじて第4位になっています。日本国内では1991年以降、経済低迷時代に入り、ODAに対して非常に厳しい目が向けられるようになりました。私は内外に環境の変化がある中、どのようにODAを時代にあったものにするかという岐路に立つODA行政のただなかにいました。ODAは単なる途上国への慈善事業と思ってはいけません。地球規模の問題の解決にも資するし、日本にとって好ましい国際環境を作るのにも役立ちます。日本は資源・食料を海外に依存しているのですから、世界の安定が日本の安定に直結します。私は開発協力は、戦後一貫して平和国家としての道を歩んできた日本が持つ、最大の外交ツールだと思っています。

 2000年、パキスタンの経済班長として赴任しました。当時のパキスタンは軍事政権だったり、核実験をしたりと、さまざまな理由で日本も含め各国が援助を差し止めていました。2001年9月11日、アメリカの同時多発テロが発生、パキスタンは危険地域になり、邦人を含む外国人の多くが退避を迫られました。そんな中、過去数十年、現地において地に足の着いた援助を実施してきたのは日本であり、最大のドナーでした。テロとの戦いにおいて、パキスタンを不安定化させないことが、国際社会の総意となる中、それまでパキスタンを疎遠にしてきた援助国から協力を引き出す役目を担うには、日本をおいて他にありません。日本国内を説得し、新規援助を出してもらうよう仕込み、対外的にはドナー会議を主導してまとめ、パキスタン国内では援助関係者が退避した中で、新規援助の実施に奔走していました。この時代、私は日本の貢献を際立てさせることに夢中でした。

 2006年から2009年にかけて、日本の援助実施体制の大改革が行われました。それに先立ち2005年から、当時経済協力局の政策課首席事務官というポジションについていました。省をあげた大改革の青写真を描く、司令塔たる幹部を直接補佐する立場です。2006年には、ODA予算と広報担当の企画官になり、財務省から予算を取ってくる役回りです。そのためにも、国民の皆さんにODAの重要性を理解してもらわなくてはなりません。2007年には、初代人道支援室長になりました。これまで国際機関への拠出と援助は部署が分かれていたのですが、初めてこれを統合し、紛争で国家機能が麻痺したぜい弱な国を復興につなげる移行期の援助に取り組みました。続いて2009年に、アフリカ担当の課長になり、TICAD(Tokyo International Conference on African Development)という日本がアフリカ開発のために立ち上げた国際枠組みを推進する立場になりました。官民連携で、アフリカと日本がウィン・ウィンの関係を築くために、これまた奔走しました。

 そして、2014年に在スリランカ大使館の次席になりました。同国は伝統的に、日本が最大の援助国として発展を支えてきたのですが、内戦終結時の対応を巡り、当時欧米との関係が冷え込んでおり、その隙間を縫って中国の進出が顕著になっていました。この中で、日本の立ち位置を実際の貢献によって確固たるものとすることに腐心しました。このように、援助の実施体制が変革を遂げる中、さまざまなポジションから、常に日本の影響力、発信力といったものをどう確保するかを考えてきました。

 私の好きな言葉で「Make a difference on the ground」というものがあります。現場できちんと結果が出せるように実行していかないと信頼は得られない。私が途上国への支援といった国際貢献の分野が好きなのは、自分がその国の国作り、発展のお手伝いができるからです。自分がこの案件をまとめ、実施し、そして現場が変わっていく。小さな一歩でも前に進み、社会の発展につながるということに、有意義とやりがいを感じてきました。

 

マルチ外交
国連代表部時代

 2010年から2014年まで、国連代表部で平和維持活動やアフリカ問題を担当しました。日本が安全保障理事会の非常任理事国であった時代も含まれます。日本人は国際秩序とは既成のものであると考えがちですが、実は日々の実績から形作られているのです。日本としては、国連での国際的な枠組みや規範作りにも積極的に関与して、日本にとっても、世界にとっても意義のある世界規範を作りたいところです。マルチの世界での日本の発信力とは、日本の旗を見せればよいというのではありません。いかに有意義なことを提言して、それを世界のスタンダードにさせるかに醍醐味があるのです。

 

総領事としての任務

 現在、総領事の仕事をするにあたって留意しているのは、当地にはいろいろな団体が素晴らしい活動をしている素地があるのですから、皆さんと協力することで、よりインパクトのある活動をしたいということです。総領事の業務が私の35年前の原点に一番近い職務内容です。その中で、頑張ってきてはいるのですが、日本の対外発信力はまだ弱いと痛感しています。少し前まで外務省の政策広報は新聞やシンポジウムなどが主たる媒体でした。それでは足りないので、パブリック・ディプロマシーが重要ということになり、遅ればせながら努力を重ねています。昨今、SNSなど、さらにデジタル・ディプロマシーを主流としなければならないといわれています。私も当地に来て、慣れないながらフェイスブックを立ち上げました。そしてこの度、『総領事ジャーナル』を始めました。これは、過去の投稿を総領事館HPに再掲して、長いタイムラインをスクロールしなくてもアクセスできるようにするものです。こうした努力を通じ、少しでも日本や日本文化の魅力を伝え、日本への親近感を高めることができればと思っています。

 

女性であることで何が違ったか

 実はこれまで、女性であることをあまり意識したことはないというのが正直な気持ちです。カナダ初の女性総領事としてどう思うかという質問もよく受けますが、それに対する回答はいつも苦慮します。外交官という仕事に求められていることは男女で変わりはありません。

 ただ、自分の辿ってきた道を思うと、少子高齢化が進んでいる日本の状況の中で、女性が産む性であることへの配慮が、社会として、もっとなくてはならないと考えるようになりました。日本は官民問わず長時間労働し過ぎ、それが男女の労働形態を規定してきました。いま進行中の働き方改革、ライフワークバランス向上の努力は、これを実現しなければ日本の将来はない、というくらい重要な改革と思います。私は、女性の後輩たちには、35歳を一つの節目に、一度自分は子供を産まなくていいのかを問うてみて、と助言するようにしています。私が35歳の時にはパキスタンで仕事にまい進していました。仕事が面白くて仕方なかったですし、いつでも子供は産めるなどと思っていたのは、今にして思えばなんて浅はかだったのだろうと後悔しています。人生100歳時代を迎え、シニアと女性を労働力に組み込み、時間的制約のある人でも労働生産性のある活動ができる社会の実現が、今こそ求められているのです。

 我々は誰しも歴史の節目に遭遇します。私は、外交官となった以上、いかに大きな歴史の流れの小さな歯車であったにせよ、後に時代の流れが好転することに貢献したと思えるように、自分が統括する持ち場で最善を尽くすことを常に心がけてきています。

 

岡井朝子総領事プロフィール
在スリランカ日本国大使館公使を経て、2016年4月に初めての女性のバンクーバー日本国総領事となる。1989年外務省に入省後、在外公館勤務はバンクーバーが6カ所目。特に開発、平和構築、国際協力分野の政策立案と現場のオペレーションに精通。

 

 

ユーモアあふれる中に力強いメッセージが込められた講演を行った、唐沢良子氏

 

Audain Foundation役員唐沢良子氏
「隠れた力で人生を切り開く」

隠れた力とは

 私は隠れた力とは、人生の下準備だと思っています。下準備には先人の教え、教訓、敗北、成功といった人生経験など、多くの意味が含まれています。私は人生を「学ぶ時代」、「働く時代」、「教える時代」と3つに分けています。私は美容師だったので、その技術を教えてもらうことをありがたく思っていました。そして、将来は自分の持っている技術を教えたいと願っていました。現在は専業主婦なので、毎日の生活に役立つことを、日本やイギリスにいる甥や姪に口うるさく言っているうちにあだ名がついてしまいました。イギリスの家族は私のことをインスペクターと呼び、日本ではハリケーン良子と呼ばれています。

 私は、甥と姪に「どんな仕事でもいいから、その仕事の達人になれるように努力しなさい」と言っています。学ぶ時代にしっかり準備ができていると目的ができます。働く時代にしっかりした準備ができていると根性が備わります。考えるようになると知恵やアイディアが出てきます。そして、下準備を繰り返していると自信がついてくるのです。しかし、人生には落とし穴があるものです。自信を持って生きてきたのに、ある日突然考えもしなかった、倒産、離婚、愛する家族の死、病気、事故など数知れない問題に突き当たり、「もう生きていくことに疲れた」と、浅はかな考えから過ちを犯してしまいがちです。自分はダメだと決めたときから人生は閉じられます。何か解決策はないか、と前向きに考えた時には必ず道は開かれると信じています。考えていけば知恵やアイディアが浮かんできます。そして、生きていくための希望とやる気に気づかされ、そこから一歩が踏み出せる。そのようなものを隠れた力だと思っています。

 

外国へ行く決心

 私は16歳の時に隠れた力を経験しました。自分の人生に将来が見いだせず悩んだとき、隠れた力は頭の中で突然アイディアとして生まれたのです。それは人が聞いたら叶うはずがないと思われるようなアイディアでした。でも私はそのアイディアを信じて希望をつなぎ、それは現実になりました。

 私にとって聖書のように頼りになる本があります。それは、山岡宗八作「徳川家康」。この本は間違いなく私の人生の下準備をした隠れた力です。家康の教訓「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし、急ぐべからず」は、焦る私の気持ちを慰め、勇気づけてくれました。過去を振り返ると、この教訓は私の人生の道標になっていたことに気づきます。

 私は群馬県で4人きょうだいの二女として生まれました。その頃は近所の家もみな、貧しさと豊かさが混じった生活を送っており、自分の家が貧しいとは思いもしませんでした。そんなある日、私は自分の家が豊かでないことを知らされました。私が中学3年生になって就職か進学かを決めるとき、母が私だけ部屋に呼び、「良子、就職してくれないか」というのです。理由を尋ねると「まんまが食えなくなる」。うちはそんなに貧乏だったのかとショックでした。母に言わせると「考えてみろ、高校くらい出ても女一人で子供を養えるような金は稼げない。これからの女は自立しなくちゃだめだ。いいか、美容師の腕さえあれば食っていける」。普段はめちゃめちゃな母でしたが、人を説得する術には長けていたようです。

 私は母の言葉を信じて就職を決めました。卒業式が終わると友達にさよならも言わず、朝一番の列車で家を出ました。着いたのは千葉県野田市の小さな駅。すりガラスに赤いペンキの文字で『パリ美容室』と書かれた店を見た時には、嫌な気分になりました。お客さんは農家や商店街の主婦で、若者が来るような店ではありませんでした。私の考えていた美容師の夢は、初日にして崩れていきました。私には3人の先輩がおり、私は部屋やトイレの掃除、洗濯や食事の支度、子守を一人でやり、休む暇なく働きました。当時は仕事を教えてもらえないことへの焦りでいっぱいでした。どうしたら現実を抜け出し、己の人生を変えていけるか、日夜考えました。そんなある日、突然「外国に行こう」と思ったのです。この縛られた日本から出て自分の足で生きていけると思ったのです。その瞬間、目の前がパッと明るくなりました。そして外国に行くための計画を考えました。

 美容師の免許を取った私は4年間働いた野田を後にし、東京のおじを訪ねて、美容室を紹介してもらうよう頼みました。そして、浅草にある『エリカ美容室』を紹介してもらいました。ここは『パリ美容室』とは全く違うお洒落な美容室でした。免許は持っていても仕事は何もできない私、自信はありませんでした。それでもここで美容師の技術を取得したいという強い意志を伝えました。美容室の大先生が「(この子を)しつけてあげなさい」と仰ったときの喜びは忘れられません。この時ほど、「人の一生は重い荷物を負って…」という徳川家康の教訓が身に染みたことはありません。そこで働き始めて6カ月後には仕上げができるようになり、指名客も増えてきました。仕事の後にはお稽古を受け、美容コンクールでも入賞しました。おかげで自信ある技術をつけて羽田を飛び立つことができました。

 

外国での暮らし

 22歳の時、外交官の家族のナニーとしてニューヨークに向かいました。またしても家事の仕事でしたが、外国に行きたいという信念からどんな仕事でも良かったのです。しかし、また問題がおきました。あんなに自信を持ってやっていた私の技術は、ニューヨークでは、やり方がもう根本的に変わっていたのです。私は美容師としての技術向上のためにイギリスに移ることにしました。しばらくして高級店に職を得ることができましたが、すぐにお客様を与えてもらえず、焦る気持ちを抑えるのに苦労しました。それでも、いつかどこかの国に永住して独立していくことを目標にしていると、毎日が楽しく、外国に住んでいるありがたさを感じてもいました。ロンドンには2年住んだあと、カナダに移ることにしました。カナダへの移民の際も、たくさんの人たちからヘルプとアドバイスをもらいましたた。

 カナダに移民できることになりましたが、働き先はアルバータ州との知らせ。しょんぼりしていたら、仕事先の仲間に「いいからバンクーバー行きのチケットを買えばいいのよ」と励まされ、その通りにしてバンクーバーに到着しました。恐る恐るバンクーバーの本社に行って「(アルバータ州行きは)間違いなんです」といったら、あっさりとバンクーバーで受け入れてもらえました。あまりにも物事が良い方向に向かい、これは何だろうと考えて出た結論は、自分の希望をまずは押してみるということ。一生懸命、仕事をしたり、良いことをしていると、誰かが必ずアドバイスやヘルプをしてくれる。人は誰かを幸せにしたいのだ、と私は感じました。自分のためだけでなく、家族、友達のため、そして社会のため…と広げていくと、自分の考えが大きくなり、心も優しくなり、人を受け入れ、許せるようになるのではないでしょうか。

 

人生に足跡を残す

 バンクーバーオペラで役員を9年して、そこで経験とチャレンジをいただきました。わからないことだらけで、恥をかいたりもしましたが楽しかったのも事実です。そして、わからない中でわかってきたのは、高度な文化を守っていくにはお金がかかるということ。オペラにしてもチケットの売上だけでは運営できないのです。コミュニティセンターも同様で、寄付がなければ終わりです。サポーターが必要なのです。

 私は、『蝶々夫人』のような劇的で人のあわれを表現する、誰でも理解できるような小説を書こうと思いたち、『般若』を書きました。小説が書けるなどとは夢にも思っていませんでしたが、書き始めたら物語が次から次へと出てきて、気がついたら一冊の本になっていました。今まで本を書いたこともない、書く勉強もしていない、中学校の教育しか受けていない私でも書けたのです。むろん完璧ではないですが、人は情熱とやる気がわけば、ものごとを達成できると知りました。できる、できないは考えず、自分の夢やアイディアがあればチャレンジしてみてください。やる気と根性、忍耐があれば夢や目的が達成できると思います。恥をかいても笑われても、もう一歩踏み出せば何かがある、何かが手に入るのではないか。私は人生をそう見ています。人生に自分の生きた証、足跡を残してみてはいかがでしょうか。次の世代に喜ばれるような足跡、そのためには何事も下準備をお忘れなく。

 

唐沢良子氏プロフィール
群馬県出身。1973年ニューヨークに渡り、1974年にロンドンへ移る。1976年にカナダに移住。長年にわたりバンクーバーオペラの役員を務め、現在はAudain Foundation役員。著書に「般若」「やまばと」がある。

(取材 大島 多紀子 写真 中村 みゆき)

 

 

岡井朝子在バンクーバー日本国総領事(後列左から3番目)と唐沢良子氏(同・2番目)。日系女性企業家協会のみなさんと

 

 

満席の会場

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。