炭鉱の街の発展を支えた日系人とモンクリフ氏
ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー島ナナイモの北約100kmに位置するカンバーランド。その歴史は1888年、石炭王として知られるロバート・ダンスミュア氏の炭鉱開発のキャンプ開設から始まった。
最初の日本人100人が入植したのは1891年。他の入植者たち(イギリス系、中国系など)とともに炭鉱の開拓に従事し、最盛期にはおよそ600人の日系人がいたと言われている。
劣悪な労働環境の中、勤勉に働く彼らが鉱山、ひいてはこの村の発展に大いに寄与したのは紛れもない事実だが、第二次大戦中の強制移動により状況は一変してしまう。敵国人扱いを受けた400から500人の日本人全員が、BC州の内陸部やアルバータ、またはオンタリオ州へと移動させられ、散り散りとなってしまった。当時14歳だったモンクリフ氏は、昨日まで一緒に学校に行き、遊んでいた友人たちが連行されていくのを見て、胸が痛んだと当時を振り返る。「彼らが去った後、あたりに捨てられた人形や三輪車が無造作に転がっている風景は昨日のことのように覚えています。こんなことが許されていいわけがない、子供ながらに苦い思いをかみしめていました」とモンクリフ氏。

 

途絶えてしまったかのように見えた日系人の歴史
終戦から5年が経ち、ようやく強制移動が解かれてもカンバーランドに戻ってくる日系人はほとんどいなかった。石炭産業も斜陽化し、ついに1966年には閉山となる。残された日本人村や墓地は管理する人もなく放置され、日系人の歴史は文字どおり生い茂る草木の中に埋もれていった。
しかしモンクリフ氏と、かつての学友たちの絆は続いていた。「昔No.1タウンに住んでいたミセス・ワニが2002年に訪ねて来て、自分の家があった場所に案内してくれと言うんです。もちろん今では何も残っていませんが、そのあたりまで行くと、彼女はかつて自分の家の庭にあった桜の木を見つけたのです。まるで生き別れになっていた肉親に、半世紀ぶりに再会したように喜ぶ彼女を見て思わず目頭が熱くなったことを覚えています。どんなに遠く離れようが、友人はいつまでも友人。彼らとカンバーランドは、私の人生の一部なのです」とモンクリフ氏。

 

徐々に進む歴史的遺産の整備
荒れ放題だった日系人墓地は戦後、モンクリフ氏ら村の有志により少しずつ修復・整備が進められてきた。人口3000人弱の村の予算で出来ることには限界があるが、村長であった氏は粘り強くプロジェクトに取り組んできた。墓地を取り囲むフェンスの設置ではに材木会社、製材所と交渉、自らフェンスのくい打ちからペンキ塗りまでをおこなった。また墓地までの道の舗装には、やはり地元業者との交渉からトロントでの募金の企画など、精力的に動き回った。また日系コミュニティ側からは八木慶男氏らの働きかけがあり、在バンクーバー日本国総領事館を通じ、日本政府からの助成金の支給も受けられた。
そして2008年5月、この墓地が村の歴史遺産に指定される。その記念碑には『この墓地は、1880年代後半からカンバーランドで生活し働いていた日本人の最後の休息の地である。我々はこの墓地を、その精神的・歴史的・文化的重要性に鑑みて歴史遺産と認定し、彼らの貢献を称える。』と記されている。
また日系人墓地だけではなく、かつての日系人居住地跡(No.1タウン)の整備も進められた。2002年にはこの場所を含む40エーカーほどの土地が、民間企業から村に譲渡される。これにより、かつてのカンバーランドの歴史が刻まれた場所をヘリテージ・パークとして整備するプロジェクトに弾みがついた。
No.1タウンにはかつて31家族が住んでいたが、そのことを伝えるために2009年10月、同跡地に31本の桜の植樹が行われ、翌2010年5月には記念碑も建てられた。

 

モンクリフ氏の変わらぬ情熱に感謝して
ここに至るまでには、先祖を想う日系コミュニティの努力の積み重ねがあったが、モンクリフ氏ら地元の有志の情熱なしには実現できなかっただろう。モンクリフ氏の受賞は、そのことに対するわれわれの感謝のしるしと言える。それについてモンクリフ氏は、「友情と文化、この二つは私の生涯の宝です。その象徴といえる勲章だから、これは私だけに与えられたものではなく、多くの日系人、そしてカンバーランドの住民みんなに与えられたものだと思っています」と話す。


村をあげて受賞を祝う
伝達式は午後3時から、村の中央にあるレクリエーション・センターのホールで行われた。用意された椅子は開会前にはすでに満席となり、今回の受賞を村全体が祝っている様子が伝わってくる。
太鼓の演奏と共に式が始まり、挨拶に立った伊藤秀樹総領事は、モンクリフ氏の長年にわたる日系人の地位向上と日加友好関係に尽くしたことが今回の叙勲の理由であることを説明。またモンクリフ氏が、カンバーランドを見下ろす山につけられた『ジャップマウンテン』という名前を『ニッケイマウンテン』に改名するため、政府と粘り強く交渉したことに触れるなど、氏の功績を称えた。
ハーパー首相などからの祝電披露に続き、BC州農務大臣、ドン・マクレー氏が、BC州政府の代表としてクリスティ・クラーク首相からの祝辞を披露。フレッド・ベイツ村長の挨拶の後、モンクリフ氏の挨拶があった。受賞の知らせを受け取ったときの感想を「まさか自分がやってきたことが、ここまで評価されるとは思っていませんでしたが、とても名誉なことです。しかし、自分がしたことは、ただまわりに声をかけて参加・協力を求めただけ。多くの人がそれに応えてくれたからこそ、今日の成果があるのです」と述べた。
このあと、会場のひとりひとりが壇上に花をそえていき(こうやってお祝いをするのはカンバーランド独自だそうだ)、モンクリフ氏と言葉を交わしていった。

 

カンバーランドの日本食を堪能する
このあとリフレッシュメントとして、サンドイッチなどのほか、カンバーランドの日本食レストラン「SUSHI MON」からおいしい寿司、てんぷらが提供された。
この店は今年、オーナーのカイ谷口氏がオープンさせたばかり。氏はスキーリゾートで最近脚光を浴びているマウント・ワシントンの日本食レストランも手がけている。「人口4000人弱と聞いて、やっていけるかな・・・と不安なところもありました。でも規模が小さい分、みんな顔見知りのように親しくなれるし景色は最高。スタッフもとても張り切っているので、がんばってみようと思っています」と語ってくれた。

198柱が永眠する日系人墓地
戦後放置されていたこの墓地は、1967年に残っていた墓石が一箇所に集められ、現在の墓石群が作られた。
大都市圏の地価高騰を嫌い、この村にも若い世代が入ってきているという。彼らの目にはこの墓石群、そして日系人の歴史はどのように映っているのだろうか。また同じことは日系コミュニティについても言える。モンクリフ氏の受賞の真髄は、日系人の歴史を自分の歴史、自分の問題として常に人々に伝えてきたことだと記者は考える。墓石や記念公園が残っても、その基になった歴史を人々が語り継がなければ、再びこれらが草木の中に埋もれないとは誰が言えようか。そのことを思うと、モンクリフ氏のみならず、この歴史を守ろうと努力してきた多くの人々に対し、日系人の一人として感謝の念にたえない。
このような動きが絶えることなく、世代から世代へ伝わっていくことを祈るとともに、そのことの困難さを感じながらカンバーランドを後にした。


(平野直樹)

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