子どもが宝物
2階のリビングルームから見渡せる雄大なノース・バンクーバーの山々を背景に、ソファに深く腰掛け「ここに住んで40年。山がすごく好きですね」と話す。大らかな様子は昔も今も変わらない。変わったことは、孝子さんの後ろで優しく微笑んでいた和男氏が2年前に他界したことだ。
 「主人はのんきな人で、文句ひとつ言いませんでした。子どもたちが小さなころは一緒に戯れたりして、あの人にとっては子どもがいちばんの宝だったのでしょう」
 長男はカナダで初の日系人大学長(UNBC ノーザン・ブリティッシュ・コロンビア大学)ジョージ岩間氏。次男のトム氏は開業医で、サレー・メモリアル病院の緩和(かんわ)治療部主任。3男のマイケル氏はトロント大学の医学部教授である。

子どもが
 体の一部のよう
台湾で生まれ終戦と同時に沖縄へ引き揚げ、21歳のとき日系カナダ人(2世)の和男氏と出会った。16歳の年の差も感じないほど話が弾み、母親の強い勧めであっという間に結婚話が進んだという。
「こんなことってあるんですね。(結婚したら)自分のしたいことが出来なくなる、と思いながら家庭に入りました」
和男氏の仕事の関係で米軍基地内の広い一軒家に住み、住み込みのメイドがふたりいた。長男のジョージ氏に続き2年後にトム氏が生まれると、オムツをした乳飲み子を両手に抱き、片時も離さなかったという。
 「子どもが体の一部のようでした。社会を知らずにすぐ結婚した私にとっては、子どもが第一でほかのことは何も考えられなかったのです」
トム氏誕生の4年後に3男のマイケル氏を出産し、毎日育児に追われた。疲れていても夜中の2時に起きて、子どもたちが布団を蹴飛ばしていないか見て回ったという。

 

好きなものを 食べさせる
学校から帰ってくる子どもたちを笑顔で迎え、毎日の日課をこなした。
「まずは好きなものを食べさせて、ゆっくりさせることが大切ですね」。フルーツ・カクテルやクッキーに牛乳を出し、今日はどんなことを習ってきたの?とおしゃべり。庭で遊ばせると高いところから飛び降りたりしたが、それを近くで見守った。お風呂に入れ、夕食には好きなものをたくさん食べさせた。
「たくさん食べていいといっても、組み合わせ、食べ合わせが大切なんです。月に1回、教会のあとにホテルのビュッフェに連れて行きました。デザートは15種類ありましたが、2種類だけを選びなさいと教えました」
夜食には体を冷やすものを避け、ホットケーキや温めた牛乳を出した。
 食べ盛りになると毎朝6時に起きて、ハム、野菜、チーズ、オムレツを入れた厚手のサンドイッチを作り、2つずつ持たせた。「考える力がつくように、栄養になるいいものを食べさせました」

 

日課を守る
夕食後は、必ず翌日の着替えを用意させた。靴下やシャツを揃え、つめが切られているか。「日曜日には正装して教会に行っていたので、うちの息子たちは今でも服装はきちんとしていますよ」
 それが終わるとその日の復習。「勉強は毎日の努力の積み重ねですね」。その横で繕い物をしたり新聞を読むなどしてあまり関与せず、自分たちで学習させるようにした。それでも同じテーブルで家族全員が作業をしているという、一体感があった。「子どもたちはそのあとおいしい夜食が出てくることを知っていましたので、せっせと勉強しました」

年頃の悩み

進学を考え、一家はジョージ氏が高校生のときにカナダに移住した。ティーン・エイジャーでの問題はなかったものの、年頃になるとそれぞれの行動に変化が起き始めた。
 「食事時間になっても帰って来ないことがあったので、“あなたたちはこの家に属しているのだから家に連絡をしない人は出て行ってもらいます”と通告しました」
ガールフレンドが車でやってくると、隣家の人が家の前に車を停められなくなった。「それで私は数ブロック先の公園の近くに車を停めて歩いてくるように言って、と息子たちに話したのですが、主人は私に“(息子たちを)好きになってくれる女の子をかわいがってあげなさい”と言っていましたね」
進学や結婚には“あなたたちの人生なのだから”と、子どもたちの選択を受け入れた。「でもみんないい嫁で、今はひとり暮らしになった私を気遣ってくれます」

親思いの
 息子たち
「末っ子のマイキ(マイケル氏の愛称)は、グリコのおまけみたいに出てきましたが、私の気持ちを思いやる子でした。子どものころ怪我をすると、『ママごめん、ぼくケガした』と言って謝るのです。甘やかして可愛がる程、親の心がわかるような気がします」
マイケル氏が教授として講義を始めたときは心配で、長男のジョージ氏に様子を見に行くよう頼んだエピソードもある。
カナダに移りメイドのいない生活になると、掃除、買い出し、ごみ係りと、3人が分担して家事を手伝った。
沖縄でアメリカン・ハウジングに住み、インターナショナル・スクールに通った子どもたちとの会話は常に英語。「無理に日本語を話すのは不自然な感じがしたからでしょうね。でも『寅さん』など観てましたから、息子たちは人情とか日本人の気持ちがわかるんですよ。日本人と仕事をするようになってからは、私に “失礼いたします”なんて丁寧な言葉を使ったりもします(笑)」

 

笑ったり
 泣いたりの子育て
コーヒーテーブルに積まれたアルバムの中に、当時の沖縄の英字新聞のコピーがあった。『新沖縄文学集』(1960年)のなかで、ミセス岩間が東京でのキャンパス・ライフを綴ったという記事だった。本当は物書きになりたかったのだと話す。
「でも物を書くには考えが熟すまで待ったり、何時間も書き続けないといけないでしょ。私はそれをしなかった代わりに3人の息子を育てながら、笑ったり泣いたりしてきたわけです。ひとりひとりの心を思いやり、お互いの気持ちの通じ合いがあるから“この方が楽しい”と思えるようになりました。だから家庭に入ったことを後悔していません」

家族とのさまざまな思い出がいっぱいの自宅。子どもたちがこの家に住んでいたころは、外出や帰宅する姿をガラス戸越しに見守った。今は代わりに、遥かな山を眺めている。「この山が友だちみたいですよ」と微笑む。
ゆったりとした大らかな人柄が、子どもたちに自信を与えたのか。そんな気がした。
(取材 ルイーズ阿久沢)

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