クリスタル・ナハト追悼式典

バンクーバー・ホロコースト教育センター主催

UBC名誉教授・ジョージ・ブルマン氏 基調講演

〜深い暗闇にさした一条の光:杉原千畝と語り継がれるべきこと〜

11月8日夜、バンクーバーのべス・イスラエル・シナゴーグ(ユダヤ教会堂)で、毎年恒例クリスタル・ナハト追悼式典が催された。基調講演を行ったUBC名誉教授・ジョージ・ブルマン氏の両親は、1940年8月、リトアニアのカウナスで、日本領事代理・杉原千畝氏が発給した日本通過ビザを得た。翌年、日本を経て、バンクーバーに到着。ヨーロッパで渦巻いたホロコーストから逃れた。

「家族が今ここにいるのはスギハラのおかげ」ブルマン氏は、会場のおよそ400人に向かい、躊躇なくこう語った。

 

 

杉原千畝氏(バンクーバー・ホロコースト教育センター提供)

  

■ホロコースト犠牲者への祈り

  追悼式典は、ホロコーストによる犠牲者の家族らが、会場のろうそくに灯をともすことから始まった。その後、犠牲者に捧げる祈りの歌、開会の辞、バンクーバー市からの追悼の言葉などに続き、今年の基調講演を行うジョージ・ブルマン氏が紹介された。

 登壇したブルマン氏は、この式典の委員長を長年にわたり務めている。第二次世界大戦終了70周年の今年は、1940年の夏、リトアニアのカウナスで日本通過ビザを発給し多くのユダヤ系避難民の命を救うことになった日本人外交官・杉原千畝氏の勇気と、ポーランド出身の自らの家族の歴史を語ることになった。  

 

■大戦勃発前後の東ヨーロッパ事情とユダヤ系避難民

 ブルマン氏は、まず1930年代後半から40年にかけてのヨーロッパの政治動向を、ポーランドとその周辺国に焦点をあて説明した。これは、日本通過ビザ発給の舞台がなぜカウナスになったかの背景にかかわる。

 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発する。同月、ポーランドは、西からはナチス・ドイツ、東からはソ連、それぞれにより侵攻・分割され、占領下となった。

 東隣のリトアニアには、ポーランド領となっていた現首都ビリニュスを中心に、ポーランドから多くのユダヤ系避難民が移動してきていた。

 避難民の間で、リトアニア駐在オランダ名誉領事によるカリブ海のキュラソー島行きビザと、カウナスで杉原氏が発給する日本通過ビザの噂が流れる。避難民らはカウナスを目指した。これが、後に「命のビザ」と呼ばれる日本通過ビザ発給の話の序章である。

 ブルマン氏はさらに、杉原氏に関し、生い立ちと、外交官となりカウナス着任となるまでの歩みを、フィンランドのヘルシンキ公使館へ向かう際、日本から船で最初に立ち寄った港がバンクーバーであったことなどを、杉原氏の当時のパスポートを会場のスクリーンに映しながら説明した。

 

■日本通過ビザの影響 

 1939年8月、杉原千畝氏は家族と共に、ヘルシンキからリトアニアのカウナスに到着。日本領事館を開館し、領事代理となった。

 翌40年7月末、杉原一家は、領事館前の群衆を見て驚く。彼らはユダヤ系避難民で日本通過ビザの受給を懇願している。そこで杉原氏は、日本の外務省にビザ発給許可を求め電報を打つが、本省はこれを拒否。しかし、当時ヨーロッパでのユダヤ人の苦境を知っていた杉原氏は、苦慮の末、人道主義・博愛主義が第一と、本省の訓令に背き、ビザ発給を決意。ソ連当局からの命令で領事館を閉館する同年8月下旬まで昼夜を問わずビザを発給した。そして、9月初旬、ベルリンへ向かう杉原一家を乗せた汽車がカウナス駅を出るまでビザを書き続けた。

 避難民らはカウナスからソ連のモスクワへ行き、シベリア鉄道に乗って大陸を横断。極東のウラジオストクから船に乗り福井県の敦賀港に上陸。1940年秋から41年春まで、このような避難民が続々と日本に到着した。神戸や東京などに滞在中、次の行先国のビザを手にした人々は、同年7月中旬までに次々と日本を離れる。同年8月以降、12月の真珠湾攻撃までには、残りの避難民らが日本政府により日本占領下の上海へ送られた。

 杉原氏が発給したビザで逃亡がかなった人々の多くは、ヨーロッパに残った家族が、戦中にホロコーストの犠牲となったことを戦後に知ることになる。

 一方、47年2月、家族と共に日本に戻った杉原氏は、外務省を免官となる。「カウナスでの大量ビザ発給が原因だった」とブルマン氏は語る。  

 

■ワルシャワ脱出

 杉原氏が発給した日本通過ビザで、6千人以上もの命が救われたといわれる。現在そのビザは「杉原ビザ」あるいは「命のビザ」と、また、杉原氏が作成した2139人の受給者の氏名や国籍が記されたビザ発給表は「杉原リスト」とも呼ばれている。

 ビザ受給者の90パーセント以上が、ポーランド国籍。ブルマン氏の両親もそうであった。

 父ナテックは1914年、母ゾシアは同20年、共にワルシャワで生まれた。

 ナテックの家族は、保存食・魚の缶詰・ピクルスなどの製造工場をもち、食品加工業を営んでいた。ゾシアの家族は衣料品業を営み、主にユニフォームを製造していた。ポーランドの鉄道員のコートや、中国の軍隊の軍服なども作っていた。

 ナテックは、ワルシャワの高等専門学校で農業技師の勉強をして、1938年6月に卒業。ゾシアは、大戦が始まる同39年9月には、高校を終え、19歳だった。知り合った二人は結婚を約束していた。

 ドイツがポーランドに侵攻すると、ユダヤ系を含む多くのポーランド人男性が同国東部へと移動した。ナテックと彼の兄も旅立った。

 ゾシアは、反対する父親を説得し、2週間だけという条件でナテックを追った。ゾシアはナテックに合流し、二人はさらに東へ。40年2月、リトアニアのビリニュスに到着。ここで二人は結婚する。ゾシアは、結局、ワルシャワには戻らなかった。そして、その後二度と両親やその他の家族・親戚と会うことはなかった。

 

■逃亡

 1940年7月31日、ナテックの兄が、カウナスの日本領事館で日本通過ビザを受給。それを聞いたナテックも8月9日、ゾシアをも含めたビザを得た。モスクワ、ウラジオストク、敦賀を経て、41年2月2日、二人は神戸に着いた。

 神戸には、多くのユダヤ系避難民が滞在していた。神戸ユダヤ協会が、米国のユダヤ人共同配給委員会からの援助で、避難民らの世話をしていた。

 ナテックは、次の行き先国のビザを求めて東京の各国大使館・公使館を歩き回った。幸い、戦中だけ有効なカナダ入国ビザを得た。ナテック一人分だけだったので、ゾシアはカナダ公使館へ行き、担当官を説得。二人分のビザを得て、翌日には横浜から出航するNYK(日本郵船会社)日枝丸の船上となった。こうして、41年7月9日、バンクーバーに到着した。

 財布に残っていたのは25ドル紙幣が一枚だけ。英語はほとんど話せない。頼る家族・親戚も友人もない。初めての地で、二人だけでの生活のスタートだった。

 戦後は、そのままカナダに滞在し、市民権を得た。子どもは3人となった。講演者のジョージは長男だ。子どもたちが成長すると、さらに孫も生まれた。増えた家族に見守られながら、ナテックは1986年、ゾシアは2004年に亡くなった。現在、二人の「孫は8人、ひ孫は4人」とブルマン氏。

 

■語り継がれるべきもの

 杉原氏の「勇気ある行為が、困難の真っ只中にある人々を助けたということに、たいへん感銘している」とブルマン氏は話す。さらには、杉原氏をそばで支えた幸子夫人、避難民に種々の援助を行った組織や団体、杉原氏のように自らの立場や家族を危険にさらしながらもユダヤ人を助けた外交官たちや民間人。「そのような人々がいたことを忘れてはならない。そして彼らの行動を手本に、他を思いやる心や、自らの信条に従い決断する勇気を引き継いでいくべきだ」とブルマン氏は述べ、講演を結んだ。

 追悼式に列席したアラン・ベイレス氏も、父親が杉原ビザ受給者だ。

 「亡くなった父ボルフが残した書類に目を通している時、いくつかのことを知りました。父がソ連の捕虜収容所を逃げ、リトアニアに行ったこと。ビザを手に入れ、ソ連を横断し、ウラジオストクに至り、そこから船で日本に向かったこと。1941年に日本に滞在した後、インドネシアからオーストラリアに移動し、その後カナダに来たことなどです」

 しかし、ベイレス氏はまだ「杉原千畝」という名前は知らなかったと言う。ところが、「10年ほど前、インターネットを通してスギハラがビザを発給した話を知りました。そして彼が父にもビザを発給したのではないかと考えました。父がたどった経過と、ビザの話が一致するように思えたからです。そこでスギハラに関する本を読んでみました。するとその本のなかに一枚のグループ写真があり、写っている一人が父でした」。こうして、父親と杉原氏の人生とが絡み合っていたことを発見した。最後にベイレス氏はこう語った。

 「本物のヒーローとは、本や映画に出てくるようなヒーローとは違い、自らを犠牲にして他者を助ける人です。自分自身にとって簡単なことではなかったにもかかわらず、正しいと信じることを行ったスギハラ氏の勇気を、私は心から讃えます。そういう状況になれば、私の子どもたちを含め多くの人々が、また私自身も、同じような勇気をもてればと望んでいます」

(取材 高橋百合)

 

クリスタル・ナハト

ドイツ語で「水晶の夜」の意。1938年11月9日夜から10日未明にかけて、ドイツ全土で発生したナチスのユダヤ人に対する大迫害。この事件により、同国におけるユダヤ人の立場は大幅に悪化。後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。 何千というユダヤ人の住居や商店、シナゴーグが焼き討ちにあった。壊された窓ガラスの破片で街路が埋まり、月明かりに照らされて水晶のようにきらきらと輝いていたことから名づけられた。

 

ジョージ・ブルマン氏

 

杉原ビザ:
左ページ:ナテック・ブルマンが、杉原千畝氏から昭和15年8月9日受給した日本通過ビザ
右ページ:杉原氏の手書きによる日本上陸に関する断り書き
中央の赤いスタンプ:昭和16年2月2日、福井県、敦賀港上陸時のもの
(ジョージ・ブルマン氏提供)

 

神戸に滞在するユダヤ系避難民。1941年5月25日(ジョージ・ブルマン氏提供)
ナテック・ブルマン:左から2人目
ボルフ・ベイレス:2列目、右から2人目

 

バンクーバーに向かうNYK日枝丸の船上にて
(ジョージ・ブルマン氏提供)
ゾシア:最上段、左から3人目
ナテック:ゾシア氏の斜め右下で写真の中央

 

アラン・ベイレス氏(左)。ジョージ・ブルマン氏の弟、ボブ・ブルマン氏(右)

 

ジョージ・ブルマン氏と在バンクーバー日本国総領事・岡田誠司氏夫妻

 

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