「私の戦後70年」と題して弊社で掲載している、読者からの投稿。その切り抜き記事を読んだという日本在住の男性から、「太平洋戦争勃発と同時にご両親ともども収容所生活の身となった日系二世が、今も元気にバーナビー市で暮らしている」との連絡を受けた。戦後70年が経過し、カナダの収容所生活を実際に経験した日系人が少なくなる中、この男性、トム・Kさん(本人の希望で略称)に話を聞いた。

 

 

強制移動させられた日系移民たちがスローカンを去るところ
Japanese Evacuees Leaving Slocan Valley; Greenwood, BC

  

戦前の暮らし

  トム・Kさんは1924年生まれ。現在91歳の日系二世だ。1900年ごろに、静岡県からカナダに移民した両親のもと、カナダで生まれた。16歳離れた、日本生まれのお兄さんとの二人兄弟で、両親がカナダに移民したのは「金になると聞いたから」だと語った。

 英語ができないトムさんのお父さんにとって、仕事を見つけるのは容易なことではなかったが、プリンスルパートでの漁業の仕事を得た。「漁業の仕事は一年中ではありませんでした。5月から10月までの夏の間だけです。プリンスルパートには水産企業があり、日本人ボスがいた関係で父を雇ってくれたそうです。当時、私たちは日本人街のあったパウエルストリートなどではなく、フェアビューのキャビン、今でいうアパートに住んでいました。半年近く離れて暮らすことになりますので、父を送り出すときの淋しい気分を覚えています」とトムさんは振り返る。

 1920年ごろから、カナダ政府が日系人に対する漁業ライセンス付与を大幅に削減したことから、トムさんのお父さんはプリンスルパートでの仕事を失う。帰化したという証明がないと漁師はできなかったためだ。それからパウエルストリートの製材所で肉体労働に就いた後、旅館の経営を始める。日本軍が真珠湾を攻撃して、太平洋戦争が始まったのは、旅館経営3年目のことだったという。

太平洋戦争勃発強制収容所へ

 太平洋戦争勃発で敵性外国人となった日系人らが、財産を没収されたことや、内陸の収容所に送られる前にヘイスティングスパークの家畜小屋に送られた話は広く知られている。トムさん一家も、同様の扱いを受けたのか聞いてみた。

 「当時、建物を借りて、旅館を経営していた私たちは、財産を没収されたといっても、家財道具ぐらいでしたから、まだ幸運でした。家は持っていませんでした。ヘイスティングスパークに収容されたのは、バンクーバー島など、バンクーバーから離れた地域に住んでいた人たちでした。ヘイスティングスパークには、BC州に住む日系人すべてを収容するだけの大きさはありませんでした。バンクーバーにいた私たちは夜間外出禁止です」

 収容の対象となったのは、太平洋沿岸から100マイル(160キロ)の、「保護地域」に暮らしていた日系人だった。戦時措置法(War Measures Act)により、カナダ政府は、2万2千人の日系カナダ人すべてを敵性外国人とみなして、移動することを命じ、カナダ生まれの1万4千人も例外ではなかった。彼らが住んでいた家や土地を含めた財産は没収、売却されて、強制収容の経費として使われた。

 「多くの日本人を短い期間で移動、収容する必要があり、当時のカナダ政府は人的にもその余裕はありませんでした。夜間外出禁止の際も、軍ではなくRCMP管理で、ずっと見張られるなどということもなかったです。当時、カナダ人に日本人と間違えられかねない中国人は、IDネックレスを持っていて、夜間外出していて尋問されたときに使っていました。日系人の中には、中国人から奪ったネックレスを身に着ける人もいました」

 また、監視するRCMPの警察官の中には、日系人から柔道を習ったという人もいて、そのような人は比較的、日系人に対して友好的だったという。しかし、トムさん一家にも収容所へ送られる日が訪れた。若い男性らは道路建設キャンプに送られたが、トムさんらは家族がいることから、一家でスローカンシティに移動した。Vancouver Technical Secondary Schoolに通う17歳の時のことだ。すでに自分の家庭を持っていたお兄さんは、トムさんらとは別れてバーノンに移った。

 「スローカンといわれて、どこにあるのかも分からず、不安でした。バンクーバーを夕方5時に出発して、24時間かけてネルソンまで行きました。聞いた話では、ケトルバレーからの道のりは急で、地元の人も怖がって乗らないとか。恐怖心を起こさせないためだったのでしょうか、その部分は夜、通過しましたね。荷物は手荷物プラス、一家族あたり100ポンドまで許されていました。私たちの荷物ですか?銃はもちろん、カメラやラジオはすでに没収されて持っていませんでしたので、キッチンや住まいの道具をいくらか。食べるものがあるのか分かりませんでしたし、ありったけの味噌や醤油を持って行きました」

食べ物に苦労したスローカンシティでの収容所生活

 日系博物館が「ブリティッシュ・コロンビア保安委員会報告書ー強制移動させられた日系の移動先分布ー 1942年10月31日」からまとめた資料によると、スローカンバレー (スローカンシティ、 ベイファーム、 ポポフ、 レモンクリーク)で、4764人。スローカンシティ単独の数字は出ていないが、大きな収容所だったようだ。

 日系カナダ人の強制移動を政府が決めたものの、当時の日系人の人数は2万人を超える大人数とのこと。彼らの収容先を決めるのは簡単なことではなかった。移動先のなかでBC州内陸部は、閉山となった鉱山のあった街で、1940年ごろにはゴーストタウンとなっていた。家族にあてがわれた隙間風の入る小さい部屋には、ストーブと「蚕だなベッド」と呼ばれる、マットレスの代わりに牧草を敷いた二段ベッド。収容所での簡素な暮らしが始まった。

 スローカンシティは『キャンプ』であったため、できる人が薪を運んだり、水道を整備したりといった仕事に就いた。賃金は1時間15セントと微々たるもの。それも、日系人から没収した資産から支払われていた。最初はトラックの運搬を手伝っていたトムさんは、Vancouver Technical Secondary Schoolに行っていたことから、発電の仕事が見つかる。しかし、実際に発電の仕事の経験者がいたことから、後にその仕事は失う。「学生より、経験者のほうがいいのは当たり前です」

 食べ物にも苦労した。「ゴーストタウンにいきなり大人数の日系人が送られてきたのだから、食べ物がない。配給制でしたが、十分な食料がなかったので、自分たちで作ったりしていました」という。

家族と離れて極寒のオンタリオへ

 スローカンシティで暮らし始めて二年目のこと。ハイティーンだったトムさんにオンタリオ行きの命令が下りた。まずはフォートウィリアム(現サンダーベイ市の一部)へ。2台の貨車に合計40人ほどが乗せられて、2昼夜かけて移動した。

 最初の仕事はパルプにするための木の伐採だが、トムさんは、すぐにクビになってしまう。「木を切った経験など全くありませんでしたから、当然です。キャンプにはバンクーバー島で林業に就いていた日系人がいましたので、彼らに頼めばいい話でした」

 翌日からキッチンに回された。5時半には起きて、伐採を行う人たちのための食事の準備。調理、給仕、片づけの繰り返し。夜は9時ごろまで、翌日の食事のためにジャガイモの下準備だ。こうして冬の6カ月間、キッチンで働き、次の仕事は自分で探した。静岡県出身の知人を頼って、カナダ太平洋鉄道(Canadian Pacific Railway=CPR)での仕事を紹介してもらった。以前と比べると、CPRでの仕事は恵まれていて、冷蔵庫などはなかったが、ベッドを備えた貨車で暮らすことができた。

 オンタリオに到着したのは10月のこと。バンクーバー育ちのトムさんには想像ができなかった、極寒の冬がすぐにやってきた。マイナス40度という気候に合う服など持っていない。やっと手に入れても一着しかないので、『着たきり雀』だったとトムさんは苦笑する。

 オンタリオに送られてからは、スローカンにいた両親と手紙でやりとりすることができた。「ただし、一通ずつカナダ政府により検閲されていました。たとえば日本の軍艦がカナダに来るといった、スローカンで聞いたデマを父が書いてきたときは、手紙のその部分が切られて、ボロボロでした。日本人の一世の人たちの間では、日本がもうすぐ勝つので、こんな生活はもうすぐ終わるといった話もありました」

 実際に収容生活が終わるのは、日本が敗戦してからだ。バーノンにいたお兄さん家族はカナダに残ったが、トムさん一家は日本に帰国した。キャンプは閉めるので、東に行くか日本に帰るようにと言われて、トムさんらは日本帰国を決める。日本でGHQ(連合国軍総司令部)の職を得た後、ブラジルで造船業に就いたトムさんは、1960年ごろにカナダに戻ってきた。

 最後に「収容所での生活について、楽しかった、辛かったこと」について聞いてみた。「辛かったことは山ほどあります。でも言っても仕方がないから」と口をつぐんだ。

(取材 西川桂子)

(写真/日系文化センター・博物館 所有「Alex Eastwood collection, Circa 1942』よりBritish Columbia Security Commission Internment Camp photographs)

 

 

スローカン(ポップオフ)収容所の仮設住宅
Double-decker bunk houses, Slocan; Popoff, Slocan, BC

スローカンに強制移動され、到着した日系移民たち
Arrival of Japanese evacuees, Slocan area; Popoff, BC

移動させられたスローカンの仮設住宅に住み始めた日系移民たち
Japanese evacuees find themselves in new settlement - Slocan area; New Denver, BC

スローカン地域の仮設住宅
Houses in Slocan area; Slocan, BC

 

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