昭和四十八年の十月。日本列島は稲も、たわわに実る秋日和。私は一人で山梨県の秘湯Y温泉につかって、一風変わったこの温泉を楽しんでいた。
当時は確か神田でデザイン事務所をはじめて間もない頃で、スタッフも少なくテンテコ舞の毎日で疲れ果てていた時。どこか、静かで、あまり賑やかでない所と云う条件で探して貰ったのが、この温泉だった。
五日間の予定で同じ宿に泊まって本でも読みながら英気を養い、疲れた頭を整理しようと思っていた。
かなり山奥に入り込んだその温泉はその地域に旅館が一軒しか無かった。初めての、ひなびたその温泉は何でも富士山の地下水脈から湧き出る霊水とかで、温泉とは云っても冷水だった。
その昔、合戦で傷ついた武田信玄の武将たちが秘かに傷を癒した秘湯だと云う。そう云えば名前も変わっている。
ボストン・バッグ一つ抱えて確かバスで目指す旅館に着いた。一人部屋で、小さな六畳一間ほどの狭い部屋で、窓から西陽が射し込んでいる。
早速、湯殿に向った。広い地下の湯殿は暗くて床に掘られたいくつかの湯槽があり、温かい湯槽は確か一つしか無かったように記憶している。
先ず直径が四メートル程の丸い湯槽に入ってみた。なる程、温度は三十度位しかなくて、入ったら動けなくなった。動くと体の廻りの体温で温まった水が又逃げてしまう。
それでも、午後四時頃だったから、ポツリポツリと人が増えてくる。そろりそろりと歩かないと危なっかしいお爺さん。孫らしい娘さんに支えられて入ってくるお婆さん。
みんな何等かのケガや病気を持った人達だった。
三十歳前後の若い娘さんが体にタオルを巻き母親とおぼしきご婦人につかまって湯槽に入ってくる。見れば松葉杖をついている。湯治場なのだ。完全な男女混浴で、丸い浴槽のへりにズラッと並ぶ先客の中に入るのは勇気が要ったことだろう。顔を真っ赤にしてそれでも湯(水)にやっと入った。
湯に入っている人は皆ジッと動かない。ウッカリ動くと冷たいし皆に迷惑をかける。私も動けなくなった。
何しろ皆、裸だから立ち上がって外に出るのが、極めてはばかられる。
それでも何とかして湯槽からズリ上って一番温かいと云う湯槽にスベり込む。
温かいと云っても体温と同じ位の温度だから大して変わりは無い。寒くて体が冷えてしまった。程々にして部屋に戻った。既に一人部屋に食事の用意がしてあって小さな膳に、ささやかな、ヤマメの塩焼をはじめとする料理が並んでいた。
TVをつけて、ニュースでも見ようと思った。
ビールを一口飲んだ時、エッ?と云うニュースが飛び込んできた。グラスを持つ手が動かなくなった。「第一次石油ショック」を伝えるニュースだった。
さあ、落着かなくなった。
既に東京でも主婦がトイレットペーパーを求めてスーパーに行列をなし、ガソリンの買い溜めも始まっている。その時抱えていた約二十件の仕事が心配になった。
予告なしに、突然日本を襲った衝撃だった。もう温泉なんかに入っていられない。三泊の予定をキャンセルして翌朝の列車で東京に戻った。予想通り進行中の殆どのデザインの仕事が中止になって若かった自分にとっての初めての試練ではあった。
その後しばらくして私は関西の一都市へ絵の取材に行った。古い街を絵に描くのは生業とは別の楽しみだった。桜の咲く四月、取材が終って駅近くのサウナに入った。
又、今度この街に来られるのはいつだろうと思いながら早朝の人のいない暑いサウナルームに入った。
誰もいないと思ったそのサウナルームに年輩の男性が横になっている。温度は百度。
右手をヒジの所で折り、上向きに寝ているので、手は天井を指している。熟睡している様子だった。私が洗い場とサウナルームを何度も行き来しているのに、その客のポーズが全く変わらない。
あまりにも熟睡されている様子なのでチョット心配になり、フロントへ行って店員に告げた。
「ああ夕べ遅くきた人や…しゃあないなあ。お客さんスンマセン、外へ出しますから、ちょっと手伝って頂けます?」聴けば夕べ大分酔っていたそうだ。
私はその人の足首を持ち店員と二人でサウナルームの外へ運んだ。体は熱いけれど持った足首の皮がズルッとむけた。
アッ!!と私も声を挙げた。店員が手首の脈をとったものの脈が無い。それからの店員の慌てようは無かった。早朝だから店員は一人しかいない。
私もどうしてイイか解らなくてタオルを腰に巻いてウロウロするばかり。これは早々に退散した方が良さそうだ。下手をすると重要参考人。帰れなくなる。それにしても家族からの捜索願いも出て無かったのだろう、このご老人が気の毒だった。
人は今笑っていても明日はどうなるかわからない。考えてみれば山梨の温泉行もそうだった。
「人生紙一重」そんな言葉を新幹線の中で噛みしめながら仏になったあのご老人に合掌した。

 

2010年9月2日号(#36)にて掲載

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