会社づとめをして、まだ間のない頃の梅雨どきだった。同僚のS君が体調を崩して仕事を休んだ。会社の野球チームの四番バッターだった彼は元々頑健な体で長く寝込むのは珍しい。

会社の経理から、月給を彼に届けることを頼まれた私は仕事が終ったあとの或る日、給料袋を持って彼の家に向かった。電車を降りてあまりなじみのない東京文京区本郷の裏路地を歩いた。
彼の容態はあと三日もすれば起きられる事がわかった。じゃあな、無理するなよ…。私は又、小糠のような雨が降る本郷の裏道を歩いて電車の駅に向かうものの、初めて訪れた土地で道が碁盤の目のようになっていない上に人も歩いていなかったこともあって道に迷った。東京は広い。

気がついたら本郷台地の谷の方に下っていることがわかった。年輩のご夫婦と思われる二人連れが、せまい路地の入り口に立っている。
梅雨どきの夕暮れでもあり馬鹿にジメジメしていたが、昔、本郷菊坂下と呼ばれた場所であり、その路地の奥の一角に樋口一葉が住んでいたことをその二人連れから教えられた。明治の中頃のことだそうだ。
それまで私は、遠い昔に樋口一葉と云う作家がいたことは知っていても、せいぜい「たけくらべ」と云う作品の存在を知っている程度だった。

しかし今、自分が立っているこの小さな谷底のような土地に苦境に喘ぎ乍らこの世を去った恵まれない女流作家がある時代、母親と妹との三人でひっそり暮らしていたことを偶然教えられた。
私にそれを静かに話される年輩の御二人は一葉の研究をされているご様子だった。
小説家樋口一葉が上野池之端の青梅学校高等科(今の小学五年)を修了したのが明治十六年、母親に女の学問は不要と云われて退学。そののち塾生として和歌、和文を学んだそうだ。
母親に学問を否定されて、退学したにもかかわらず一葉には晩年士族となった父親の娘と云う誇りがあり、その誇りを生涯持ち続けたと云う。

私が偶然、同僚を見舞った足を踏み入れた、この本郷菊坂下町に若かった一葉が母と妹を養いながら、それでも文学への情熱を燃やしつづけ移り住んだのは、父親が事業に失敗、病没。それが原因で許婚にも背かれたあとだった。

母と妹との三人のくらしを支えるために作家を志したものの生計はとても成りたたなかったらしい。おまけに処女作を発表した雑誌「武蔵野」を主宰する半井桃水への恋情が表沙汰となり桃水と交際を断った。東京下谷の吉原遊郭に近い竜泉寺町に駄菓子や荒物を商う小さな店を出すがこれも失敗。どん底の苦しい生活が弱冠二十二才の一葉の肩にのしかかった。

昔といえども、まだ遊びたい盛りの年頃だったろう。原宿や六本木あたりの盛り場でアイスクリームをなめながら歩く現代の若い女性がつい瞼に浮かぶ。現代の世情とはあまりにも違う一葉の青春ではある。

摺り鉢の底のような狭く暗い菊坂下町の石段下の空き地に立った私の目に、時代にとり残されたような周囲の古い木造りの家並が一葉の恵まれなかった薄倖の生涯を語りかけてくるようだった。

石段を降りた小さな広場に井戸があった。恐らく一葉もこの井戸の水で洗濯をしたのだろうと思った。
空き地の周りの古い家並を見ていると自分が突然、明治の時代にタイムスリップしたように感じ、どこからか若い一葉の声がきこえてくるような錯覚を覚えるのであった。
手に携えていた小さなカメラで、多分一葉が住んでいたと思われる辺りの写真を撮った。暗く、寒々とした風景だった。

あらためて一葉の没年にかけての短編を読んだ。中でも『大つごもり』『十三夜』そして『わかれ道』などの作品は当時の世相やその時代に生きる社会の底辺の人々の歓びや哀しみが、しみじみと描かれている。
そして一葉自身の境遇に根ざす女の悲しみが訴えるように折り込まれていて、あの菊坂下町の路地奥のたゝずまいとだぶって私の心に迫ってくるのであった。

森鴎外や幸田露伴らにその作品を激賞され一躍文壇の寵児となった彼女だったが、その頃すでに一家を支える過労はその極に達し、明治二十四年十一月二十三日短か過ぎる二十四才の生涯を閉じた。結核だった。

しばらくして回復するかに思われたS君の容態が急に入院する事態となり看護の甲斐もなくバットを肩に遠くへ旅立った。彼も二十四才、私も二十四才の初夏。

 

2012年1月12日号(#2)にて掲載

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