2016年10月6日 第41号

 現在カナダには10万9740人の日系カナダ人が住んでいる(2011年調べ)。日系カナダ人とはカナダ国籍を持つ日本人のことで、その大部分は西海岸に集中しており、その中でもブリティッシュ・コロンビア州が最も日系人の人口が多い(2011年調べでは4万5895人)。戦前のバンクーバーでは日系人の町、『ジャパンタウン』と呼ばれる区域があるぐらい日系人はカナダに根付いていた。パウエル通り沿いの区域は、かつて日本語では日本人街と呼ばれ、英語ではリトル東京、リトル横浜と呼ばれた。かつて栄えた日本人街も第二次世界大戦の煽りによって失われた。今でもパウエル通り沿いには仏教寺院や日系人のメソジスト教会やバンクーバー日本語学校などの名残りが残っているものの、日本人街自体は過去のものとなっている。

 

花月栄吉の肖像写真(撮影日は不明)

 

 

 商業で成功していた日系カナダ人は第二次世界大戦で日本とカナダが敵対国となったことで、その財産や土地は没収され、強制収容所へ収監されることになる。財産や土地を失い、強制収容された者の中にかつては『カナダの林業王』と呼ばれた日系人がいたのをご存知だろうか。林業で成功し、『林業王』とまで呼ばれたこの者は戦争という悲劇で全てを失い、歴史の中に埋もれていってしまった。

 だが最近になり、カナダの州政府、大学、そしてバーナビーにある日系文化センター・博物館の合同で戦中、日系人たちの失った財産や土地を再確認するプロジェクトが発起し、その中でこの人物の存在が蘇ったのである。この人物、花月栄吉といい、林業で成功しただけではなく、日系人会長、仏教会会長、バンクーバー商工会議所会頭を務めて、日系コミュニティのために様々な福祉を行い、学校を建て、在留する同胞たちのために尽くした。世界の反対側から渡って来た一人の日本人の若者がどうやって林業王となり、戦後に全てを失った状態でどう日系コミュニティの中で生きたのだろうか。

 花月栄吉は1883年(明治16年)9月5日、紀州藩(和歌山県)日高郡湯川村財部に生まれた。家業は煙草屋を営んでいた。煙草屋といえば客が煙草を求めて尋ねるというイメージがあるだろう。だが青年だった栄吉は自ら町の酒場へ出向いては、その酒場の客たち相手に煙草を売るという手法で家業を手伝っていた。喫煙者ならば理解できるかもしれないが、お酒と煙草というのはセットのようなもので、酒場の客は煙草を売るには絶好の客といえた。思えばこの頃からすでに、栄吉には商才の片鱗があったのかもしれない。

 だが1898年(明治31年)1月、栄吉の人生を大きく変えるできごとが起こる。日清戦争後の財政を立て直す名目で、明治政府による葉煙草専売法が実施されたのである。栄吉の家族は国からの保証金をもらい、煙草屋はたたむことになる。家業を失ったことが栄吉の人生において大きな転機となった。ここから栄吉が、なぜ日本から遠いカナダの地へ渡り、林業王とまで呼ばれるようになったのか。もともと和歌山で親戚が営んでいた林業に興味があり、酒場などで、遠いカナダの地から戻った者たちの話を聞いていたのかもしれない。「カナダには巨大な木々が生い茂っている」カナダから戻った者たちがそう話しているのをどこかで栄吉は聞いていた可能性はある。

 幸い明治政府からの保証金もあり、1906年(明治39年)6月2日、栄吉はカナダへ渡る決意をする。カナダ入国手続きに必要だった当時の金額は25ドル。栄吉の持参した、明治政府からもらった保証金は39ドルであり、14ドルの余裕があった。和歌山から渡航する者は多かったが、そのほとんどは当時カナダで盛んだった漁業に携わったが、栄吉は、その中でも土木関係の仕事に就いた。もともと親戚から林業の技術を教わっていたのかどうかは定かではないが、栄吉にとっては初めての世界である。だが、木場に就労してわずか1年で栄吉は約500ドルを貯金し、独立を果たし、山林業管理事業を起こす。1年で500ドルを貯めたことから、栄吉が日本人の勤勉さと商才を兼ね備えていたのも伺える。この独立が栄吉の『林業王』となる道の第一歩だったといえる。

 一見そのまま好調と思えた栄吉の人生は再び転機を迎える。今度の転機は悪転だった。独立して創った事業は不況のため、1912年(大正元年)に破産し、一労働者に逆戻りして、一度日本へ帰国する。だが栄吉はあきらめてはいなかった。帰国中に『木材需要調査』に力を注ぎ、日本の木材業界が好況だということを知った。カナダでの林業のコストは当時日本の4分の1の安さであった。カナダに戻り、残っていた財産で山林を買い、北米の木材の輸出事業を立ち上げ、三菱や三井などの大財閥を得意先とする木材の輸出に乗り出した。それがまたまた大成功し、栄吉はあっという間に以前の地位を抜き、さらなる飛躍をした。1923年(大正12年)にはバンクーバー島のファニーベイの山林一帯を資本金12万ドルで購入し、事業をさらに発展させる。さらにはそのファニーベイ山林から海岸まで鉄道を敷き、機関車や貨車を購入し、木材の運搬出に利用した。栄吉の敷いた鉄道は13キロの長さがあり、木材の運搬出に鉄道を利用することを考えたのは栄吉がカナダ史上初であり、栄吉はカナダ政府から「林業界の先駆者」として絶大な信頼を得た。業界に革命を起こし、大いにカナダの林業業界を発展させた栄吉は後に皆から『Lumber Baron』、『林業王』と呼ばれるようになる。

 栄華を極めた栄吉の人生は昭和に入って再び悪路を辿る。第二次世界大戦、日本でいう太平洋戦争が勃発した。北米で日本人に対する風当たりも厳しくなり、ついにカナダ政府はカナダに住む日系人の財産と土地を没収し、強制収容所への収監を決める。あれだけカナダの林業界に尽くした花月栄吉も例外ではなく、財産や土地の全てを没収され、強制収容所送りとなる。この時、栄吉の失った財産や土地を現在の価値に換算すれば7百万ドルから8百万ドル(日本で約7億円から8億円)ともいわれている。1945年(昭和20年)に戦争が日本の敗北という形で終結する。強制収容所に収監されていた日系人たちは解放されるが、一度没収された財産や土地は競売にかけられ、戻ってくることはなかった。

 戦後の栄吉の人生は商人としての姿ではなく、カナダにおける日系社会のために尽力する姿の方が印象的となる。戦後の栄吉は『林業王』ではなく、日系人会長やバンクーバー商工会会頭を始めとする各種重要職を歴任。働く人の子供たちのために学校を造り、心の支えとなる宗教である仏教会の会長も務めた。日系社会のため、政治、経済、社会と多方面で力を尽くし、その貢献は『カナダ産業界』にも大きく貢献したとされ、英国王室によりバッキンガム宮殿へ招かれ、表彰もされている。さらには現地での同胞への尽力を称えられ、日本政府からも叙勲されている。

 戦後はバンクーバーからトロントへ移住し、貿易業を営みながら日本領事館の開設のためにも力を注ぎ、日系老人団体『寿会』を結成、財産や土地を失った同胞たちのために『済生会』をも再興する。戦争の煽りで全てを失った日系社会は栄吉の手によって立て直されたといっても過言ではない。そんな日系社会の英雄・花月栄吉は戦争が終わって約20年、日系社会も大きく復興していた1967年(昭和42年)、同胞たちに見守られ、84年の生涯を閉じる。

 花月栄吉はカナダの日系社会だけではなく、カナダ自体の産業にも多大な貢献をし、戦後の日系社会復興にも尽力した英雄である。だが戦後から最近まで、この花月栄吉は歴史に埋もれてしまっていた。栄吉の末の息子であるジャック・カゲツ氏により、遺品などが集められ、日系文化センター・博物館に寄贈されることにより、花月栄吉に数十年ぶりに焦点が当てられることとなった。現在、日系文化センター・博物館とカナダ州政府、ビクトリア大学の合同で『Landscapes of Injustice Project』、日系人が不当に没収された財産や土地を再認識するプロジェクトが立ち上がっており、日系社会の中で最も成功していたうちの一人である花月栄吉は、そのプロジェクトにとって大きな存在となるであろう。これからのカナダの日系社会の中でも伝えていかなければならない。全てを時代の流れによって失いながらも、同胞のために死ぬまで尽力し続けた真の英雄がいたことを。

(取材 榊原 理人/写真提供 日系文化センター・博物館)

 

花月栄吉、妻・トヨ、そして娘たちとの写真(撮影日は不明)

 

花月家、総領事官邸前での合同写真 (花月栄吉は下の段、左から3人目 他の人物名や撮影日は不明)

 

花月栄吉の末の息子、ジャック・カゲツ氏とその妻・ケイ氏、友人との写真(撮影日は不明)

 

 

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