板橋僚子さん

 

~3・11震災をきっかけに三味線を再開~

2011年、大地震と津波が東日本を襲った。日本在住、在外いずれにしろ、日本人にとっては、忘れがたいショッキングな出来事となった。オタワ在住の板橋僚子さんも心に深い傷を負ったひとりだった。震災のニュースを聞いたのは当時在住していたモントリオール。生まれ育った福島が大災害に見舞われた。何もできず、ただ報道されるニュースを見ては、皆の安否を祈るだけ。心がメタメタになり、泣いて暮らしていた当時、そんな自分の心を落ち着かせるために、物置にしばらくの間、眠っていたものを取り出した。津軽三味線だ。

  

三味線奏者 板橋僚子さん(写真 Jean Lapointe) 

   

津軽三味線への道

 もともと和太鼓奏者だったという僚子さん。太鼓の音を聞くと血が騒ぐほどの熱中ぶりで、2000年にワーキングホリデーで初めてバンクーバーに来た際も、地元の福島で太鼓を続けるために、そして津軽三味線を始めるために予定通り1年で帰国。地元の太鼓のグループに戻り、津軽三味線も1週間に1度ほどたったの30分のレッスンのためだけに、福島県から新潟県まで往復3時間かけて通い始めた。この道で有名な故木田林松次先生に師事したという。

 こうして帰国後は太鼓や笛や三味線といった和楽器に囲まれた生活を10年近く送った。そんなある日、大きな転機が訪れた。夫の復学のため福島県からモントリオールに引っ越すことになってしまったのだ。

 2009年、当時3歳だった子どもを連れて、カナダでの新しい生活が始まった。日本から一家そろっての大きな引越しに、見知らぬ土地での子育てとなると、やはり大変だった。三味線からも、一時休暇をとることに決めた。そうしているうちに2年の月日が経ち、2011年3月11日、地元が震災に遭ったことを知らされる。

 

真夏でも三味線と着物で4〜5時間は野外演奏(写真 Jean Lapointe)

 

震災をきっかけに三味線を再開

 「地元がこんなことになってしまった」と泣いて泣いて暮らした当時。気持ちを落ち着かせねばと、数年しまったままだった津軽三味線に向かった。弾けば弾くほど心が落ち着く。これをきっかけに三味線の感覚を取り戻し、家の近所にある小さな山の麓まで、三味線をかついで毎日のように練習に励んだ。ジョギングや散歩などで通りかかる人たちが、立ち止まっては「いいね!」と声をかけてくれる。そんな一言一言が嬉しくて、「それならモントリオールの日本のお祭りで弾こう!」と目標を掲げ、練習にも一段と力が入った。震災1年後の2012年3月には、三味線を再開するきっかけとなった震災犠牲者のために「INORI」と題する「震災コンサート」で演奏する機会も与えられた。演奏するその姿には、地元福島の復興を願う気持ちが、体の隅々から滲んでいた。

〔http://www.ryokoitabashi.com/ ウェブサイトから閲覧可能〕その後は、テレビ番組で演奏を依頼されたり、新聞社から取材を申し込まれたりと、津軽三味線を紹介する機会が増えてきたという。

 

珍しいと喜ばれる三味線

「フルートでもなく、ギターでもなく、バイオリンでもない、この不思議な楽器。着物を着て演奏しているから、余計に珍しいようで、お客さんが立ち止まっては、喜んでくれる」と僚子さんは言う。現在、在住している首都オタワでは、夏になると観光客で賑わうバイワードマーケットで路上演奏している。日本の夏のように湿気の多いオタワの夏は、30度前後まで気温が上がるのだが、それでもなお「三味線を弾くときは着物、という自分のなかのルールを守り、強い日差しのなか、4〜5時間ほど演奏する。演奏当日は場所確保が先着順となり競争率が高いため、午前6時にバイワードマーケットに行き、予約開始の午前8時まで、その場で待つ。予約を終えたら、一時帰宅して、子どもたちの朝食の準備やその日の夕食の準備など家事を済ませる。その後、着物を着て、またマーケットに戻る、と言った分刻みの過酷なスケジュールだ。一分たりとも休む時間はないという。ここまでできてしまうのは、津軽三味線を通して日本文化を少しでも多くの人に知ってもらいたいという使命感と、津軽三味線が好きという気持ちがあってのことだろう。

 

 

僚子さん(写真 Jean Lapointe)

 

今後の課題

 だが、「皆が皆、喜んでくれるというわけでもないんですよ。辛いことだってたくさんあります」と僚子さんは話す。太鼓のようにバンバンと撥で胴を叩きつける三味線は、弦楽器なのに打楽器のようで、西洋音楽にはない独特の音を奏でる。またメロディーの構成も西洋音楽とは違うので、聞く人によっては、それがメロディーに聞こえない場合もある。そういうことが関係してか、僚子さんの三味線の演奏を好まない人もなかにはいるようだ。

  特に、バイワードマーケットという観光地では、野菜や果物などを売っている年配の農家の人たちが演奏場の近くにいるのだが、聞きなれない曲に「耳が痛い」と言って耳を押さえるジェスチャーをしたり、思いがけないコメントを投げかけられたりすることもある。

 すべての人に受け入れてもらうのは難しい。だからと言って、周りの声に耳を傾けず、日本文化紹介という名目で伝統音楽を屋外で演奏を続けるのもどうなのか。近年、「ウエスタン音楽を取り入れてみたら?」「ビートルズ弾いて」「スパイダーマン弾いて」などとフィードバックをもらうことが増えてきた。「もしや、そんな周りの声を聞き入れれば、三味線の音に聞きなれない人たちも、ちょっとは受け入れてくれるかも。それに私自身の活動の幅も広がるかもしれない。得意とする伝統要素の強いメロディーの演奏は、自分の18番として残しておこう」。最近ではそう考えるようになり、路上演奏ができない冬の間は、周りの声も考慮しながら、聞きやすい音楽をモットーにオリジナルの曲作りに専念している。

 

 

気さくに取材に応じてくれた僚子さん。たまに口から出る会津弁で場を和ませてくれた 

 

 すでに今年に入ってからは、そんな僚子さんの目標を後押しするかのように、在日本大使館主催の邦楽演奏会で、演奏する機会があった。トロント在住の和楽器奏者草野幸吉さんと共演したのだが、今回の演奏会では、舞台構成から曲の選別まですべて自分たちでやったと言う。会場を日本巡りの旅に包み込んだ演奏会はスタンディングオベーションの大盛況を収め、それがこれからの音楽活動を続ける自信にもつながったようだ。

 三味線に太鼓に笛を使いこなせてしまう和楽器奏者、板橋僚子さん。すでに次の目標である作曲家としての道も歩みだした。次はどんな舞台を演出してくれるのか、今後の彼女の音楽活動に期待が膨らむ。

(取材 小林昌子) 


 

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