2019年11月14日 第46号

 マイキー! 大変だぁ。ママね、お財布をなくしたのよ。カードが全部入っているの。キャッシュが◯◯さんへ返金する分も入っていてさぁ。運転免許証も、クレジットカードも。ああ、どうしよう? すると息子が「それじゃ、ママ、今日はどこへ行ったの?」 ママは今朝、最初にRGHへSystoscopyの検査に行き、ロンドン・ドラッグで薬を買い、シーボーンヘ松茸買いに…。「ママ、そこで支払いしているから、そこではカードがあったんだよね」「最後に財布をみたのはどこ?」そうだ、その後、空き缶コレクターの所へ空き缶を届けに行った。そこでは、財布は使わなかった。車にハンドバッグを残しておいたから、そこで盗まれたかなぁ。そう言いながら、もう一度書類でいっぱいのダイニングテーブル上の箱を一つずつ何気なく見た。「あったぁ!」大騒ぎの果てに財布は見つかった。テーブル上の領収書入れ箱の中だった。今日、受け取った諸領収書を財布から取り出し箱に入れた時、大事な財布も入れてしまったのだ。

 「でも、ああ よかった!」これは私が80歳という年齢で認知症っぽいからではない。昔から忘れん坊なのだ。

 思えばその昔、家族そろって移民、カナダへ出発の時、香港の啓徳空港で飛行機に乗る列に並んでいた。すると見送りに来たルフトハンザ・ドイツ航空の空港所長で私のボス、ストリッカーさんが手招きして夫を呼び、私から離れた場所で2人楽しげに話している。数分して列に戻った夫は何も言わない。そして、機内に入った。手荷物の整理をしていると、彼が言った。「澄子、荷物はまとめて置かないと忘たり、なくすよ」「さっきねぇ、ストリッカーさんが僕を呼んでね、『すみさん、あんなに荷物いっぱい持っているけど、モントリオールに着く時は皆なくなっているよ。注意しなさい』と僕に笑いながら言ったのだよ。いいボスだねぇ」本当に優しいだけでなく、聡明なボスだった。長年、私の働きぶりをみて欠点も良点もしっかり愛情を持って見極めてくれていたのだ。

 移民手続きを陰で手伝ってくれたのも、彼だ。何故か日本が大好きで、片言の日本語を使う。『ありがとう』とか、「さよなら」とか、私の事も『スミさん』と呼び英語の読みの「sumiko」は使わなかった。  

 本当に仕事ができる人はただ能力が違うだけでなく、最大の理由は、仕事に誇りを持ち、愛してやまない溢れる思いで働く人に、喜ばしい気持ちで接する。面倒くさがらず、人のせいにせず、妥協せず、手間ひま、手塩にかけてエネルギーを込めて仕事をしているのではないだろうか?すると周りにいい影響が広がり偶然が味方して驚くような成果につながっていく。退社後、半世紀近くたった今でも、たまらなく懐かしくなるあの会社、本当にあの人たちと働けて良かったとしみじみ思う。当時、ルフトハンザの空港の仕事請負会社の人達は「ロウフゥ(虎)航空」とあだ名で呼んだ。「タイガーエアーライン」と言うのだ、つまり非常に仕事に厳しく、いい加減なことが絶対できない、恐ろしい会社でもあった。

 移民し訪れたケベック州は正にフレンチ・レボルーションの真最中。フランス語の分からない我々家族は間もなく、自然にバンクーバーへ越した。最初の就職は魚の加工会社。仕事は事務だ。友人の紹介で得られた仕事だが、これほど「何も分からない、できない、自分にあきれた」。辞めるはずの秘書が、引き継ぐはずの私があまりに仕事ができないので退職できず、なんと8カ月、私のトレーニングが彼女の仕事になった。8カ月目にはさすがに私でもうれしくなるほど仕事も覚えたが、魚臭くて、始まる時間が恐ろしく早いので、「ごめんなさい」そして「ありがとう」トレーニングして頂いて、とそこを退職。教えてくれた秘書は退職せず、社長への感謝の下に継続して働き続けた。私の方は8カ月間、それは丁寧に、そして給料をもらいながらしっかりいろいろ教えてもらった後だから、堂々と機内食を作る会社に会計係り兼受付係として就職できた。そして、初日、出社すると机上に1輪の綺麗な赤いバラの花が置かれていた。その下にカードがあった。開けてみると「自分はこの会社のウエストコーストの総支配人でタイラーと言います。そして今、トロントへ出張中で、貴方の働く初日にご挨拶できない。でも、心から歓迎します。一緒に仲良く働きましょう」といったことが書いてあった。うれしかった。そして、一所懸命、楽しく働いた。

 どのボスも「できない私」を「頑張る私」としてみてくれたのだろうか。ボスになる人はやはりボスの素質を持っているのだろう。

許 澄子

 

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