2017年10月19日 第42号
どこに出しても全く引けを取らない流暢な英語を話し、読み書きも問題のない日本から来た移住者の女性が、先日裁判所から陪審員になるよう通知が来たので指定日に行ったけど「私は英語が母語でない」のでと断ったと言う。
カナダの国籍を取っていれば、一度ならずとも、国民の義務として呼び出しを受けることを余儀なくされる。すでに経験済みの方も多いことだろう。
しかしくだんの女性は「どんな事件の陪審員にさせられるかは分からないけど、もし一言でも聞き漏らしたり、間違った解釈をして原告や被告の人生を狂わせることになったらいつまでも自責の念に駆られるし、私は単にFunctionally Bilingualだから」と続けた。
「言葉」の持つ重さに気遣う姿勢に感心しながら、Functionally Bilingualという言葉が気になった。彼女は英語は勿論のこと、しっかりと日本語も維持しているため通訳も翻訳も問題なくこなす。それでも人の人生を左右するような立場に立つ程自分の英語は十分ではない、と言うのだ。出来る人ほど謙遜するのかと思い 「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という諺を思い出した。
カナダの生活が長いことで日常生活の英語が上達する人は多いが、一方日本語が疎かになる人は少なくない。置かれた環境によるものの、時には日本語の語彙の貧しさにちょっと驚くことがある。
会話中に「どこどこに旅をした」とおっしゃるので「どうでした?」と伺うと「面白かった」「素敵だった」「きれいだった」と言うだけで後が続かない。では英語の説明の方が楽なのかと思うのだが、やはり「interesting」「wonderful」「beautiful」だけなのである。もしかしたら話すのは不得意でも、旅行記などを書いたら素敵な文章でまとめることが出来るのかもしれないが…。
永い間気になっていることの一つに、外国に長期間住んだ場合の母語維持の問題がある。よく言われるのは、言語能力というのはその人が頭脳明晰かどうかとは必ずしも一致しないというもの。つまり「言語に対する能力は各個人の才能」に寄与するので、滞在期間とは比例しないというのだ。もちろんFunctionally Bilingualともなれば、両語とも非常にしっかりしている人は多いが、一番残念なのは、日本語も英語も中途半端になってしまうことだ。
つい先日今年のノーベル文学賞に選ばれたカズオ・イシグロ氏は、長崎生まれで父親の仕事の関係で5歳のとき一家で英国に行き、後に両親も含め移住権を取った人である。
彼の日本語学習の変遷は面白い。英国在住の両親とは今でも日本語で話すと言うが、その程度は日本を離れた5歳の時の日本語であり、途中に英単語が沢山混じるため、「まるで日本語であるかが分からない日本語」になっていると冗談交じりに語る。
幼少の頃は親が家庭で日本語を教えてくれたようだが、ある時期それは良くないのではと両親が気付き辞めたといい、その決断に彼は感謝しているとか。イシグロ氏が育った時代は、今のように外国の多くの街に日本語学校や日本人のコミュニティがなかったため、もし無理して漢字やカタカナを覚えるための教育を受けていたら、言語感覚が歪んだものになっていたと述懐している。
「あぶはち取らず」の言語教育をしなかったことが、ノーベル文学賞の快挙を生んだというのは興味深い。
サンダース宮松敬子氏 プロフィール
フリーランス・ジャーナリスト。カナダ在住40余年。3年前に「芸術文化の中心」である大都会トロントから「文化は自然」のビクトリアに移住。相違に驚いたもののやはり「住めば都」。海からのオゾンを吸いながら、変わらずに物書き業にいそしんでいる。*「V島 見たり聴いたり」は月1回の連載です。(編集部)