2017年8月17日 第33号

 私は自分の意志とは全く関係なく、生まれてすぐに幼児洗礼を受けカトリック信者になった、というより、させられた。父方の祖母が大変に敬虔な信者で、嫁である母もまたアイルランドから送られた尼僧の先生方が教鞭を執るカトリック系の女学校に通ったことから、英語やフランス語と共にキリスト教を学んだのだ。

 そんな環境であったから、私は小学校の高学年になると授業が半日で終わる土曜日の午後(当時は半ドンと呼んだ)に教会に行き、公教要理という聖書の「お勉強」をさせられた。

 今は観光名所としてとみに有名な、横浜の外人墓地から少し離れた山手教会が所属であった。神様のお話はとても為になった筈だが、今覚えているのは「神は何である」「愛である」という禅問答のような教え一つである。

 何故文句も言わずに通ったかと言えば、理由はただ一つ。行けば貰えるマリア様やキリスト様の描かれた名刺大の聖画や、「メダイ」と呼ばれるロザリオに付ける小さな飾りのメダルのようなものを集めるのが楽しかったからなのだ。丁度その頃の男の子が「面子(メンコ)」を集めていたように、私は教会からの頂き物を大事にしていた。

 そんな時期、村岡花子さんが「赤毛のアン」を翻訳しておられ、上梓されるたびにお小遣いをはたいて買っていた。言ってみれば私はアンの筋金入りのオリジナルファンで、それは文句なく読書の楽しみを与えてくれたシリーズ本であった。

 ところがある日いつも行く本屋の片隅に、顔見知りのイタリア人の神父が身を屈め食い入るように何かを見ている姿に出会った。それはポルノ関連の雑誌が置かれている場所で、子供は暗黙の内に決して近づいてはいけない一角だったのだ。

 私はまるで自分がとんでもない悪事を働いたかのような気持ちになり、慌てて本屋を後にした。以後教会では、同神父に出会うのをひたすら避けたのである。

 もちろんそれだけが原因ではないが、長ずるにしたがってカトリックという宗教に何か相入れない違和感を覚え始め、祖母や母の嘆きをよそに教会に行くことをきっぱりと止めた。今なら「神父と言えども一人の男か…」と思えるが、子供にそんなことは理解できない。

 そして今、ニュースになっては消え、消えては浮かぶカトリックの神父による児童への性的虐待報道を見るたびにこの思い出が蘇る。女性の裸体ポルノを見るのと、れっきとした犯罪である幼児性愛に違いはある。後者は大方の場合男の子が被害者で、幼い男児は誰にも言えず悶々と悩み、人生さえも棒に振るケースが多いと聞く。

 だがこうした事件は今も世界各地の教会で後を絶たず、バチカンはその都度口外しないことを条件に和解金を払い、加害者の神父を他国に移動することで事件を隠蔽し続けてきた。とは言え、そんな醜聞はものともせず、世界のカトリック信者数は12億もいるとか。

 残念ながらこうした幼児性愛事件は、カトリックの神父に限ったことではない。スポーツクラブの指導者、またカナダの場合は、昔ファーストネーションの子供たちが無理やり親元から離されて寄宿舎に入れられ、被害に遭ったという話をよく耳にする。

 ではカトリックの聖職者の場合は、何を持って事件を食い止められるのか。結婚制度がないことが大きな問題だとの意見も多い。だがそこには、余りにも深い暗黒の闇が広がっているようで、簡単な解決法があるかは疑わしい気がする。

 

 

 


サンダース宮松敬子氏 プロフィール
フリーランス・ジャーナリスト。カナダ在住40余年。3年前に「芸術文化の中心」である大都会トロントから「文化は自然」のビクトリアに移住。相違に驚いたもののやはり「住めば都」。海からのオゾンを吸いながら、変わらずに物書き業にいそしんでいる。*「V島 見たり聴いたり」は月1回の連載です。(編集部)

 

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