2016年10月20日 第43号
イラスト共に片桐 貞夫
リュウが言った。
「おイトさん、もうそいつあー死人だ。よけいな刃傷はしねえほうがいい。実あー、おイトさんに殺らしてやろうかと思ったんだが手元が狂っちまったんだ」
事実であった。当初、リュウは多少の加減を思っていた。しばらく吉藏を生かしておこうと思ったのだ。しかしイトと八重への憐憫を思った。二人の酷逆な生を思って、勢いが余ってしまったのであった。
イトが丸くなって動かなくなった吉藏の身体を足で押した。意志を失った肉塊が、ぐにゃりと仰向けになった。
あまりにあっけないおのれの終焉が信じられない。両目を突き出すように開いたままの吉藏は、分厚い唇をかすかに震わせ、起こったばかりの現実を否定しているかのようであった。
風がやんだのか虫の音がぶり返している。夜明けを前に最後の声を張り上げている。
「うっうっうっ」
イトが泣きだしている。吉藏の死が確認され、高ぶる感情を鎮止できなくなっていた。
「おイトさん、聞いたよ。タケちゃんからあんたのことは聞いた」
リュウの声がいつものものに戻っている。
その時、シズノの身体が動いた。すきを見て色子の腕を払い除け、ひとり、その場を逃げようと這い出したのであった。イトが駆け寄ってシズノの髪をつかんだ。ふたたび短刀を振りかざした。
「おイトさん、いけないよ」
リュウがイトのそばに来て言った。
「もうそんな女の顔なんて切んなくったっていいんだよ。もう、その女は逃げや隠れはできゃしない。夜が明けたらお縄になるだけだよ」
「ううう …」
イトが泣いている。シズノの髪を放した。
リュウが続けた。
「こいつはこうやって何人もの丁稚の身体を食いもんにしてきたんだが、ついに赤ん坊をはらんだ。丁稚の子供を身ごもったんだ。けんど、さすがにみっともないと、別宅にこもってひそかに産んだんだよ。貰いっ子をしたということにしたんだ」
「うっ」
「おイトさん、生きるんだよ。どこまでも生きるんだ。もう男のかっこうなんてしなくていい。おタケちゃんみたいに幸せになって生きていくんだよ」
「…」
イトがしゃくりあげながらうなずくことをした。
しばらく黙ったリュウがつぶやくように言った。
「あたしも親に捨てられた。あたしのてて親は琉球の人間じゃあない。だからあたしの母親はあたしを流したんだ。生まれたばかりのあたしをサバニに乗せて流したんだ。だからあんたの気持ちは分かるような気がする」
サバニとは琉球カヌーのことである。
一昼夜、海流に乗ったサバニは沖縄もとぶの漁師に発見された。リュウはその老いた漁師によって育てられることになったのだ。
「おイトさん、一つだけ訊きたいことがあるんだよ。あんたが街道稼ぎの男に身をやつしたわけは分かる。親の恨みを晴らそうとしたわけもよくわかる。けんど、どうして昔のことが分かったんだい。どうして近江屋のことが分かったんだ。お母さんと別れ離れになったのは、たった五つん時だったんだろ」
「…」
しばらく間をおいたイトが思い切ったように口を開いた。
「あれは六年前、わたしが十五になった頃だったと思います」
声が女のものになっている。
「海に行ったんです。生きているのがつらくなってこの身を海に投げてしまおうと思ったんです。海に着き、海辺を歩いていると島が見えました。それが小さい頃、母と一緒に見たことのある島だったんです。それで、母のふるさとが、江の島の見える漁村であるということが分かったんです」
死ぬはずであったイトは、その村で叔母にめぐり会った。八重の妹であるこの叔母が、死ぬこともできずに気を病んだ母八重をひそかに匿っていたことをイトは知ったのであった。
「六年前っていうとお母さんが死んだ後だね。そうかい。そうだったんかい。お母さん、その村の叔母さんのところで世話になっていたんかい」
「叔母は、母のことをあまり話してくれませんでしたが、わたしは母が、日毎、何者かを呪いつづけたことを知りました。私は叔母に泣きつきました。母の呪いごとがなんなのかどうしても知りたかったのです」
イトは、母八重の過去を知らずに済ますことができなくなっていた。まぶたに残る母最後の形相は、両ほほを裂かれた凄惨なものであった。どうしても知らなくてはならなくなっていた。
「でも叔母は言ってくれません。わたしはどうしていいか分からなかったんですが、食べることを止めることを思いつきました」
イトは絶食を始めて叔母に開口を迫ったのだ。
「叔母はやっと明かしてくれました。痩せ衰えていくわたしを見て、叔母は母が呪った恨みごとのすべてを言ってくれたんです」
「そうだったんかい。それでシズノや辰蔵のことが分かったんかい」
リュウの目がそっと光った。
「だけどねえおイトさん。いいかい、終わったんだよ。これで、あんたの過去は終わったんだ。これからはゆくすえのことだけを思っていくんだよ。自分の幸せのことを考えて生きていくんだ。もう過去は終わったんだ」
「はい」
イトがリュウを見て答えた。
リュウはどきりとした。はいとしか言わなかったがイトの声が違う。目もとが違うものになっている。しとやかに微笑んだイトの面もちになまめかしいほどのものがあったのだ。リュウは、かつての八重の芳艶さを思った。そして役者団十郎のようだったという若き惣次郎の色男ぶりも。
虫の音が遠くなっている。イトの苦節にも似た秋の夜長ではあったが、外には夜明けの気配が漂っていた。
(了)