2019年2月7日 第6号

岐阜県不破郡垂井町にある古民家でギャラリー兼絵画教室を運営する山村基久さん(68歳)。今は「絵の先生」と呼ばれる立場だが、サラリーマン時代はエンジニア。29年間、機械メーカーで工作機械や駆動装置の設計、開発に従事していたが、会社の早期退職を機に、人生で置き去りにしていた好きなことにフォーカスを定めた。以来、「想定よりも上」の出来事が起こっている。

グランマ・モーゼスのように

 1989年の日本の流行語大賞に「濡れ落ち葉」がある。これは「払っても払ってもなかなか離れない」という様から、定年退職後の夫が、これといって出かける用事がないため、妻の用事にどこまでも付いていく様子を指している。そんな言葉が流行った頃、山村さんは定年後の準備を促す社内研修に参加する。「何かしら定年後にできる趣味を持ちなさい」という講師の提案に対して「自分は絵が好きだ」と話すと、講師はグランマ・モーゼスの話を紹介してくれた。アメリカの国民的画家アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスのことだ。

 モーゼスは1936年76歳の時、リウマチで手が不自由になってから絵筆を握り、油絵を描き始める。絵画収集家の目に留まったことから、89歳の時にはトルーマン大統領からホワイトハウスに招待されるまでになった。101歳での他界までに約1600点の作品を残している。

 モーゼスに倣い「定年後は絵を趣味にしたらいい」と思った山村さんだか、その後、定年どころか失職が現実味を帯びてきた。

会社でのポジションに危機

 退職前の3年間には苦い思いが詰まっている。製品の開発部長という役職は付いたものの、命じられた勤務地は自宅から2時間の場所だった。単身赴任、長時間労働、休日出勤。それが当然とされる会社の中で山村さんは思った。

 「家族のために働いているのに、どうして仕事で家族を犠牲にしないといけないのか」

 その思いは次第に膨らみ、仕事のやり方を変えようと奮闘するも空回り。会社では疎まれたり、難しい仕事を押し付けられたり、ついには降格を命じられるという問題児扱いを受ける。そのストレスから、とうとう顔に脂漏性湿疹が現れた。

 そんな頃、母親が実家で採れた柿を送ってきた。その柿を手にした時、「これを返事のハガキに描いてみよう」と思いつく。虫食いもあれば、傷もある。形もいびつだった柿をまじまじと見つめるうち、それが今の自分と似ている気がした。ありのままに描くうちに、締め付けられた心が解かれていくのを感じていた。

 はがきを受け取った母が電話口で言った。

 「あんた上手やね」

 それだけの言葉に心が弾んだ。小さな頃から絵を描くのは好きだったが、絵に込めた思いが伝わった喜びは何にもかえがたいものだった。

自分の夢に気付く

 定年を7年後に控えていた2004年、ついに退職を決意する。すると、導かれるように次々と道が開けていった。会社の転身援助制度のサポートを受けながら転職先を探した。起業も視野に入れ、地元の商工会議所主催の創業塾に参加した時のこと、講師から「仕事は夢を実現するための手段です。あなたの夢は何ですか?」と問われてハッとした。それまで仕事は目的で、夢は小学校に置き去りだった。答えられずにいると「ではあなたに11億円あげます。そのお金で何をしたいか隣の人と話をしてください」と促された。その時自分から出てきた言葉は「自分の美術館を建てる」だった。そこから「今後の仕事は絵にかかわるものを」という思いが芽生える。「そうは言っても画家でもないので、いきなり絵の先生で食っていけるはずもありません」。

 どうしたものかと考え始めたとき1冊の本を思い出した。それはベティ・エドワーズの著作『脳の右側で描け』。ネットで調べると、エドワーズの弟子であるクリスティン・ニュートン氏が「ワークショップ」を開いていることを知り、早速東京に出向いて受講。みるみる絵が描けるようになることに驚きと喜びでいっぱいになった。「ワークショップの講師ならば、自分にもできるのでは」。講師のニュートン氏に相談すると「本気でやるなら弟子にしてもよい」と許諾を得た。

 だがまだ大学に通う二人の息子もおり、当面の生活も考えなければいけなかった。すると、今度は会社の人事から岐阜工業専門学校(岐阜高専)の機械工学科教員の公募を紹介され、転職が決まった。

 そこから平日は高専の仕事、ワークショップのある週末は東京のニュートン氏のもとに通う生活が始まった。高専では美術部の顧問に就任し、学生を指導してみて少しずつ改良を加えた。「見たものを見たままに描けばいいんだとわかった」「こんなにうまくなると思わなかった」と生徒が喜ぶ姿、絵がうまくなる様子を見て、指導への手応えを得た。

ついに絵画教室を開始

 65歳で高専勤めの定年を迎え、いよいよ絵一本での生活に乗り出した。独立開業支援機関にサポートを求めて、屋号やロゴを決めて意味のある動きができたのは、翌年2017年からのこと。現在、山村さんの絵画教室「アトリエ・ルディモンテ」では、NPOの古民家の一室を拠点に、ワークショップ形式で絵の描き方を指導している。

 人は絵を描くときに、自分がその物に持つ思い込みや先入観で描き出してしまいがちだ。しかし、絵の基本は見ている実物を2次元の平面上にそのまま描き写すことにある。自分の余計な解釈を入れず、見たままに描けるよう、山村さんは見る技能を指導する。さらにニュートン氏の教えをベースに、関連の図書を研究。脳科学の新しい知見や美術部での指導経験も生かして、よりわかりやすい講座内容を構成した。振り返ってみると、設計技師だった山村さんにとって、3次元の実物を2次元の平面に落とし込むのは特別なことではなかった。人にわかりやすく伝えることへの関心の高さも、エンジニア時代からのものだ。「よい技術者は難しいことをわかりやすく話し、悪い技術者はやさしいことを難しそうに言う—」この言葉を胸に留めて仕事に取り組んできた。

 ギャラリー兼絵画教室の運営は、一人で何もかもという大変さはあるものの、喜びのほうがはるかに大きい。絵をうまく描けずに困っていた人がうまく描けるようになって笑顔になる。自分が絵に込めた思いが人に伝わる。そんなときに感じる思いは言葉にし難いものだ。

 趣味で絵を描くだけの選択肢もある。しかし仕事にすることによって、受講者への責任と同時に、絵に本気で向き合う醍醐味や生活へのハリが生まれている。

身体も家庭も

 私生活のほうはどうだろうか。体調管理に関しては、コレステロール値が基準値以上になり、しばらく薬を服用した。だが薬のせいで筋力が落ちる気がして、医師に相談し、食事と運動での改善に転換。野菜を多くとり、1時間の散歩、サーキットトレーニング、ノルディックウォーキング、山登りに取り組み、基準値以下を達成した。

 高校時代に知り合った妻は要所要所で冷静な助言をくれる存在だ。昨年は一緒にイタリアの美術館を巡り、美術史への理解が深まるよい機会になった。

純粋に見る行為を通して見えてきたもの

 講座の受講者の一人は、自画像に自分の顔のシワを丁寧に描いた。しげしげと見て描くうちに、自分のシワにも愛おしさを感じてきたという。

 何の定義もなしに物事を見る。するとそれまで見えていなかった価値が見えてくる。「絵の指導を通しての願いは、自分自身の能力や可能性に気付いてもらうこと、それと同時に『こんなに美しいものに囲まれて生きてきたんだ』と気付いてもらえたら」。その願いは確実に叶えられてきている。

(取材 平野香利)

 

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