思えば長いつき合いである。特別、お互いに意識しないまゝなのに、身近で一時も離れたことのない関係は、既に半世紀を越えてまだ続いている。

十五、六才の頃、下手なテニスで駆けずり廻っていた時からの関係だから云ってみれば家族以上の愛着を感じる時もある。
真剣に縁を断つべく、しかるべき専門家の元を訪ねたこともあったが、どうしてもうまく事が進まなかった。
今はもう成り行きに委ねるしかないと思うようになった。

ある時、右足の小指の内側が痛くなって靴下を脱いでみたら、小さなウオノメが出来ていた。それが痛みの原因と解った。ウオノメを除去する小さな膏薬を貼ったが、走ったり風呂に入ったりすると、膏薬がすぐズレたり、どこかに行ってしまう。
何度膏薬を貼りかえしても結果は同じで、そうこうしている内にウオノメは少しづゝ育った。やむなくカミソリの刃で削ったりしたが、実に難しい場所で下手をすると隣りの指を切ったりする。

社会人となってからも、そんな余計な作業はついて廻った。会社づとめをする身となれば、背広を着てネクタイを締めているのに、下駄を履いて出勤するわけにもゆかない。
膏薬魔のように、たくさん膏薬を買い集めて試したけれど結果は膏薬がずれてしまってうまくゆかず、あきらめて十日に一度は固く元気になってきたウオノメを削る生活が続いた。靴を履く文化が本当にうらめしかった。

ある時、住んでいた東京、泉岳寺の家の向いにおられたT大の体育の先生に、このウオノメの悩みを打ちあけたらM先生が「なんで、そんなこと早く云わないのか!」と云われる。話によれば、同じ東京の三鷹に知り合いの名外科医がいるそうで、そんなのはアッと云う間の手術で解決だと云う。
即刻、M先生がその親しい医者に電話をして下さって、手術の段どりが決まった。
本来なら休診日だけど、M先生のご紹介だから特別あした日曜日にやりましょう…と云うことになり、私は日曜日の朝、勇んで下駄を履いて電車に乗った。
手には、この名医の大好物だと聴いたウイスキーをぶら下げていた。これで長年のウオノメの痛みに終止符がうてると思ったら唯々うれしくて一時間の電車が二時間にも感じられた。

日曜日だから他に患者もいない。看護婦さんも休みで医者が一人で手術をして下さると云う。「M先生とはねェ、アッハッハ!」と医者が豪放に笑った。少し怖かった。
ウオノメもロクに見ずに、ガッハッハ!こんなのはチョチョイノチョイだ!と云われ私もすっかり安心して横になった。馬鹿に部屋が暗かった。

医者が患部のあたりを突っついて「これだろう!?」と云われる。「そうなんです!」と私は返事をした。先生はちょっと赤ら顔で、少々酒くさかったのを憶えている。
ちょっと痛かったけれど本当にアッと云う間の手術だった。その手際の良さには″さすが名医″と云わせるものがあった。

隣の指まで一緒に包帯でグルグル巻きにされた足で下駄をはき、カラコロ音をたてながら家に戻る道すがら、これで足の小指の痛みとも縁が切れると思ったら嬉しさがこみ上げてくる。
少し酒くさい医者が玄関を出る時、一週間したら包帯とってイイヨ!と云われた。
もう再診の必要も無いと云う。
東銀座の勤め先まで、下駄で一週間通勤した。
会社の同僚がタイル貼りの床をカラコロ下駄の音を立てながら歩き廻るので″うるせえなあ…″と云う。仕方がないので草履をはいたら誰かが又″畳屋みたいだ″と云う。
一週間が待ち遠しかった。八日目の朝、私はワクワクする気持で指の包帯をほどいた。

次第に包帯をほどいて見たら、アレッ!!小指のウオノメがジッと私を見ている。手術前と変らない。次いで隣の指を見たら、明らかに手術のあとがある。ゲゲッ!!
名医なのに酒ゆえか、それとも部屋の暗さゆえか隣の何でもない指が大分削られていたのだ。

私は思案に暮れたものの一ケ月考えてから、向いの紹介者M先生にだけは…と思って″残念ながら″と話した。
「あの薮医者め!」M先生が又医者に電話をされるのかと思ったら急にしんみりされた。
聞けば、もうあの幻の名医は、この世におられないと云う。お気の毒なことに中国へ旅にゆかれた帰りの機中で急な病で亡くなられたそうだ。ご冥福を祈るばかりだった。

以来ウン十年。小指のウオノメは、一度私を棄てようとしたのネ!?と私を睨みながらカナダまでついて来た。いとおしさが募ってくる。もう今更別れるなんて私には……。


2013年1月10日号(#2)にて掲載

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。