私が三十台の後半。東京でデザイン事務所を持って、かれこれ十年が経っていた。七、 八人の若いスタッフがいて、デザイナー同志の感覚のちがいからくるイザコザがたまにはあるものの、活気のある仕事場だった。

ある年の五月、新緑の長野県、蓼科高原に向けてスタッフが二台に分乗したレンタカーがスタートした。
云ってみれば、ありきたりの慰安旅行で、日頃いそがしい思いをさせているから、せめてもの罪ほろぼしだった。

蓼科火山(二五三〇㍍)山麓に展開する長野県屈指の高原である蓼科は標高一二〇〇〜一五〇〇㍍。一大斜面で、カラマツ林が多く、五月の萌える新緑は日頃、都会の谷間で車の排気ガスを吸いながら、うごめいている我々の目に痛い位だった。
二泊の予定の大きな丸太造りのバンガロー暮らしである。バンガローだから自炊をしなくてはならない。
夜はシコタマ持ち込んだ食材でのすき焼きだった。
若いスタッフの食欲は見ていて恐ろしい程だった。
沢山ネギや牛肉、豆腐を買ってきて良かった…と安堵した。

若い連中の大イビキを聴きながら熟睡した私は朝五時に目が覚めた。連中は、当分起きそうもない。
そうだ、こんな時こそ普段望んでも出来ない高原の散歩をしようと思いついた。
皆を起こさないように、そうっと寝床を出た私は夕べの酔いが残る頭でスニーカーを履いて外に出た。

例えようもない程すがすがしい緑の空気が都会ぐらしで汚れ切った体と頭を一気にリフレッシュしてくれるような錯覚をおぼえる。
カラマツ林の冷気が夕べの酒でたるんだ皮膚をひきしめてくれるようだった。

一体、我々の日常の生活は何なのだろう。朝は日昇と共に目を覚まし、夕べは沈む太陽に一日無事に過ごせた感謝の気持を捧げて寝床に入る。
これが、やっぱり生きものである人間本来の暮しかたなのではないだろうか…等と柄にもなく清らかな気持ちで山の斜面の細い道を辿る。

小鳥のさえずりをきゝながら歩いていたら、少し腹が痛くなってきた。下っ腹がゴトゴト鳴っている。
そう云えば朝起きてトイレにも行かず外に出たことは不覚だった。これは大変なことになったと気がついた。

元より人里離れた山道である。トイレなんかある筈がない。右を見れば四十五度もの斜面のはるか下の方に、川のせゝらぎが見え、左を見れば木立ちが密生した急な昇り斜面である。
今の今まで悟りを開いた名僧のような気持ちで歩いていたのに「これが人間本来の生き方…」なんて云っている場合ではなくなってきた。

両側とも急斜面とは云え、まさか道の真ん中で、大事業を決行するのは無理。さりとて皆が寝るバンガローまでは三十分。とても保たない。
腹は益々グルグルと鳴って風雲急を告げている。
勇をふるって下り斜面に踏み込む。少なくとも六、七㍍は立木につかまり乍ら、谷に向かって降りる必要がある。
もし誰かが同じ道を歩いてくる事を考えれば、それが最小限の身を隠す下降作業であった。
ロープもないから訓練を積んだ山岳レスキュー隊だってかなり上級の技術の筈だ。
一本の樹を左腕で抱え体の落下を止めた。あとは右手しかない。本作業は沢山ある。
先づズボンをおろさなければならない。足許に低いブッシュが生い茂る斜面での作業は難渋した。しかも急斜面。
体を保持する左腕は、既にしびれて震えが始まっている。

主たる目的の作業中に下を見たら雪どけ水らしい谷川の意外に強い流れが目に入り、あわてて目をつむった。
万が一左手がしびれて樹を離したら…と思う。多分明日の朝刊の記事になるのは間違いない。見出しはおそらく「不運の転落死!」

右手の信じられない程の活躍だったが、どうしてもズボンのベルトは無理。最後の力をふりしぼって登攀再開。
なんとか危機脱出!!助かったと思い神に感謝した途端、人の声が耳に入った。

ギャッ何たることか!!
あの声は我社の経理のY嬢とデザイナーのM嬢ではないか
「気持ちイイワねェ…」
「本当に空気がおいしいわ…」
二人連れだっての散歩らしい。
何でこんな時よりによって…。

忍者は再び隠遁の術に入る。
ズボンをズリ上げて、樹につかまり、身を低くして息を殺した。たのむから立ちどまらないでくれ!と神仏に祈った。
もし、こんな格好を彼女らにみつかったらもうオシマイ。もうあしたからは絶対彼女らにお茶など頼めない。このネクタイどう!?なんてとても…。


2012年9月13日号(#37)にて掲載

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