私が生まれて育った場所は埼玉県の中央部、武蔵野台地の北端にある旧城下町で、江戸時代には商業都市として栄えた土地だった。

寺や神社が無数にあった。名刹喜多院、東照宮、日枝神社のような国の重文に指定された名跡のほかに、日頃子供たちの遊び場となった小さな神社やお寺、お稲荷さんが至るところにある町だった。
町の中心街には江戸時代の商業の町としての繁栄を忍ばせる土蔵造りの家が今も沢山保存されている。

小学校時代の遊び友達の中には昔ながらの蔵造りの家に住んでいる子もいて、夏の暑い盛りにその土蔵造りの家の中に入るとヒンヤリとしたカビ臭い冷気が滞っていて寒い程だった記憶がある。

火事には格段強い土蔵造りには何度も大火に見舞われ辛酸をなめてきたこの町の知恵が生きていた。廻り中の家が燃えつきるような大火でも蔵の中の家財はビクともしなかったと聞く。
この町の名物はいくつかあるものの何と云っても有名なのは近郷で作られるサツマイモ。そのサツマイモを大きな素焼きの壷の中に吊り下げて時間をかけて焼きあげた「壷焼きいも」は、冬の寒い木枯しが吹く頃の一番の思い出の味覚である。
町の中心部には、ひときわ高い「時の鐘」がそびえていて、四百年の昔から時を告げる鐘の音を響かせる。今は一日四回。この鐘楼の足許に名代のおだんご屋がある。
幼な友達T君の住む家で昔はT君のお母さんが醤油味のおだんごを焼いていたが、今はT君が引き継いでいるそうだ。
T君とは、まだ明けやらぬ早朝、自転車にのって前夜仕掛けたウナギの置き鈎を何度となく引き上げに行った。
T君のお母さんが焼く昔ながらの辛口の団子の味とともに忘れられない想い出である。
旧市街地の東のはずれに、さして大きくもない天神様があった。
学問の神様、菅原道真公を祀った神社で「三芳野神社」と云った。
家から子供の足で歩いて四、五十分のその神社の境内は三、四人の友達と遊ぶ格好の遊び場だった。子供の為の遊園地などない時代だったが子供が遊ぶ空き地や原っぱは、いくらでもあった。

子供心にも小さく見えたその天神様を覆うように大きな樹が繁っていた。
時折、木漏れ陽が境内を照らしたものの夏の暑さを感じたことのないたゝずまいは、いつも深閑として音もなかった。

今となっては当時の自分がその天神様の境内でどんな遊びをしていたのか思い出しようもない。多分、何人かの幼な友達と連れだって、背の高い樹に登ってドングリを採ったり、網を手にトンボなど追っていたのだろう。
遊び疲れて神社の裏手の樹の根元に転がって遠くきこえるプロペラ機の音を聞きながらウトウトまどろんだ記憶がかすかに残っている。

〽通りゃんせ通りゃんせ 
  ここはどこの細道じゃ 
  天神様の細道じゃ 
  どうぞ通して下しゃんせ
  ご用のない者通しゃせぬ 
  この子の七ツのお祝いに
  お札をおさめに参ります
  行きはよいよい帰りは恐い
  こわいながらも 
  通りゃんせ通りゃんせ

この三芳野神社は童謡「通りゃんせ」の発祥の地だと、親から教えられた。それも物心ついてからである。
そう云われてみれば神社への参道は昼なお暗く、木立の奥に小さな社がひっそりと佇ずむ風情は、この唄が作られた昔、もっと寂しく草深い野末だったであろうと想像する。

それにしてもどうして「行きはよいよい」で「帰りはこわい」なんだろう。
昔、この神社の参道に参詣に訪れる良民を一人一人問いただす小役人でもいたのだろうか。それとも地元の小悪党でもいて、そいつが狭い暗い参道で参拝客をゆすったのだろうか。

菅原道真(すがわらのみちざね)公は、平安前期の学者であり政治家でもあったそうで幼ない頃から学問に励んで醍後天皇の頃(八九九年)には右大臣を任じられるまでになったと聴く。
同じ官僚のねたみで太宰府に流され窮乏の中で病死されたものの後に名誉が回復され学者として天神信仰とともに日本各地に祀られたと云う。
当時としては、日本の行く末に目を据える傑出した官僚だったのだろうが、いつの時代にも人を妬んで足を引っぱることに血道をあげる人間がいるものだと思い、昨今の日本の政局を見るにつけ、世の中の常なのだとは思う。

そんな偉人が祀られた神社の境内で心おきなく遊ばせてもらえたのに何とも不甲斐ない自分はせめて今度ふる里に足を運んだら、この天神様にお札をおさめに参ります。

 

2012年5月10日号(#19)にて掲載

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