仕事部屋の整理をタマにしないと仕事が仕事だから、筆やら絵の具やらコンテや鉛筆が混然となって、あちこちのヒキダシに散らばって、スグには目的の物が見つからなくなる。
仕事中には半分、夢を見ているように頭がこんがらがっているので、確かここに入れたと思うものもスグには出てこない。
だからどうしても定期的に持っている画材や道具を全てさらけ出してしかるべき場所に入れなおすことになる。
八月に催した個展のあと又この整理をした。
その時、普段は滅多に使わない抽出しの一番奥の方から小さなクレヨンの箱が出てきた。
12センチ×8センチ程のそのクレヨンの箱は角もスリ切れて丸くなり、パッケージの印刷もかすれて、よく見えない。
よくよく見れば、それは昭和20年代のはじめ頃、日本のクレヨン・メーカーP社から発売された製品だった。
やぶれかかったフタをあけてみると、いずれも使い古して短くなり、中にはもう一センチ程に短くなった十二色のクレヨンが「まだ置いてもらってもイイのかしら…」と云う風情で入っている。
整理をはじめた手が止まってしまうのである。

昭和20年代のはじめと云えば、太平洋戦争が終ってまだ間のない頃で、敗戦国日本は混沌としていた時代。庶民の生活物資だってロクな物はなかった時である。

私は小学校の低学年で毎日腹をすかせていた時代。楽しみと云えば、学校から家に帰って終戦末期まで雨戸を締め切った裸電球の下でひたすらワラ半紙にエンピツで戦争の絵ばかり描いていた。

先日、抽出しを整理していて出てきた、このチビたクレヨンは多分戦争が終って間もなく親が私に買い与えてくれたものだったのだろう。
良く思い出せなくなった遠い昔の、とぎれとぎれの回想が、陽かげろう炎のように瞼に浮かぶ。
それまでワラ半紙にエンピツをなめなめ描いていた絵にクレヨンと云う画材を与えられて多分私は夢中になって絵を描き続けた筈である。
自分が小学校低学年の頃の手垢が染み込んだような、そんなチビたクレヨンが、それから半世紀以上の歳月を経て、それも移り住んだ他国の家の小さな抽出しからオズオズと出てくるのである。

終戦の頃、食べる物もなく遊び道具も何もなかった。

ある物と云えば手づくりの竹馬や樹の枝を切りとってゴムを張って小石をとばすパチンコ位のもの。暑い終戦の年の路地の奥でトンボ等を追いかけていたことを憶い出す。

やがて、そんな飢餓世代の少年は押し出されるように世の中に出て勤めた仕事場は画材と縁の深い広告会社で、転勤も含めて十一回の引っ越しをした。
心細かった大阪での生活。東京に戻って新宿住まい、東京小金井市で二度住まいを変え、神奈川に移り、日本最後の住み家は東京港区の泉岳寺のそばだった。
そしてそのあと、西風に吹かれたように自分のデザイン会社を畳み、ひそかに憧れていたカナダ、バンクーバーに移り住んだものの性懲りもなくまたサンシャイン・コーストに移動。更に二度の引っ越しを経て、ぺンダーハーバーの小島に落ち着いた。しかし、まだ先はわからない。

別に訳もなく引っ越しをしているのではなく、その都度立派な理由があって動いているものの動く理由はいろいろあるものだとつくづく思うば
かり。

さてクレヨンの話である。私は引っ越しをするたびにガラクタの整理をし、その都度大事な物、まして画材は念入りに取捨選択してきたつもり。時代と共に良い画材も増えて要らなくなった物は沢山あった。

当然この少年時代に後生大事に使ったP社の古びたクレヨンも、とうの昔に屑カゴ行きの運命にあった筈なのに、何年かおきにヒョッコリと顔をのぞかせる。
見れば古びたクレヨンの箱のフタに名前を書く場所があって、たどたどしい平がなで自分の名前が書いてある。
思えばこの小さな十二色のチビたクレヨンは、私が勝手に今迄、引っ越しで動き回った過去、片時も私から離れることもなく私についてきてくれた幼な友達なのだ。いつも抽出しの奥の方に仕舞い込まれ恥ずかしそうに「まだ居させてもらえるのかしら…」とでも云いたそうにしながら。
いとおしくて、とても捨てられないのである。
タマにパステルを使って絵を描く時、思いついてこの昔々のクレヨンをホンの少しだけ使う。引退選手の再登場である。
「エッ。まさか…いいんですか、本当にいいんですか私なんか使っていただいて…」
クレヨンの恥ずかしそうな声が…。

 

2011年10月13日号(#42)にて掲載

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