luna
人と、馬と、犬と、すべての生き物が共存する South Lands
- Photographed by Ritsuko

谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま 杉田久女
父が俳句を嗜んでいたので、私も若いときから古今の俳人の句を読むのが好きだった。しかし、この句に出会ったときには、男性の俳人の句に読み慣れていた私にとっては、この「こだま」がまるで、雷のような轟と爆音に聞こえるような大きな衝撃だった。
この句は、昭和5年、大阪毎日、東京新聞社主催の日本新名勝八景を詠む俳句公募の10万句の中で、堂々首位をしとめた杉田久女の句である。彼女は、 1980年(明治23年)鹿児島に生まれ、台湾を経て東京に育ち、東京の御茶ノ水高等女学校(現在の御茶ノ水女子大の前身)を卒業後、結婚してから俳句に 出会い、それに全魂を打ち込み、高浜虚子をして「あの人は、日本の男の俳人の中でも、1、2を争う才能を持っておりました。」と言わしめながら、その才能 を自由に発揮する機会を失し、家庭と自分の才能の相克の中で、1946年(昭和21年)福岡の精神病院で悲劇的な56歳の生涯を閉じた女流俳人である 1)。
ここには、彼女の自由を求める思い、思いっきり叫びたい!!という魂の思いが溢れている。
彼女は女学校を優秀な成績で終えた後、当時の日本の習慣通り、花嫁修業として生け花、茶道などのお稽古に通い、お見合いで東京美術学校(現在の東京芸大 の前身)出身の男性と結婚することになった。彼女のその当時の夢は、貧しくとも芸術家の妻として生きるという純粋な思いだった。ところが、その夫は洋画家 としてよりも、先ず生計をと考える堅実な男性で、九州の中学校に図画の教師として赴任することになった。彼女にとっての最初の落胆は、東京を離れ田舎の中 学校教師の妻となることで始まる。九州でのつつましい新婚生活の中でも、常に芸術家の妻としての自分の夢を実現したいと考え、夫に、自分の絵を描いて帝展 に出品するように勧めてみるが、夫は生徒を教えるだけで精一杯、時間も暇もアトリエもないし、と答えるのみの人だった。このような日常に、彼女は結婚への 大きな落胆をさらに募らせていた。

足袋つぐやノラともならず教師妻
そんな頃、偶然兄から借りた高浜虚子主催の俳誌「ホトトギス」が、いきなり彼女を開眼させることになる。彼女の渇ききった魂は、たった十七文字の中です べてを表現するというこの特有な文学の世界にまるで「こだま」のように呼応したに違いない。すぐに、この俳誌「ホトトギス」に頻繁に投句するようになり、 随筆もさかんに寄稿したりしていた。
自由を求めて家を出るイプセンの戯曲のヒロイン、ノラにもなれぬ自分の境遇を自嘲したこの句は、小さな町の中学校教師の夫の面目を失わせたことに違いな い。夫は、久女の俳句への情熱を喜ばなかった。心の通い合わない夫婦の長い年月、さらに、東京の虚子をとりまく華やかな女流俳人にくらべ、片田舎にひっそ りとつつましい生活を余儀なくされている孤独な自分の境遇など、彼女は絶望的な孤独感に打ちひしがれていった。そんな状況が彼女を被害的な妄想に駆り立て ゆき、虚子やその弟子との間のトラブルも増し、ついには俳誌「ホトトギス」の同人も除籍となり、最終的には精神病院に入院を余儀なくされてしまうのであ る。

抑圧された魂
実は、私自身も、久女のような日本の古い価値観としきたりの家庭の中で、教育を受けた一人である。私の仕事を知る人の多くは、おそらく私が理解ある両親 の元でスムーズに(スクスクと)研究生活を送り、そしてカナダに移りクリニックを開いたと多分誤解されているに違いない。しかし、私の道のりはそのような スムーズなものではなかった。
この杉田久女の悲劇のストーリーは、当時、両親そして親類の激怒と大反対(「嫁にも行かず、研究だって??、どうかしている!!」という)を押し切っ て、医学部で精神医学の博士課程の研究生としてスタートを切った頃の私の心の、ずっと深い内部に眠っていた孤独な悲しみを大きく揺さぶるものだった。
私は、女の子に学問は必要ではない、短大あるいは女子大学に行き、お茶、お花、お琴、お料理、洋裁を習い、見合い結婚によって、「しかるべき家に嫁ぐ」 という日本の伝統的な価値観が支配する名古屋で育った。大学卒業が近ずくと、毎日曜日、着物を着せられて、ホテルでのお見合いという儀式に、死にそうなく らいの辛い重い気分の毎日を送っていたのだった。
その鬱々とした重い気分をさらにさかのぼってふりかえると、高校時代もずっと、私は自分のあり方を模索していたと思う。高校はいわゆる有名進学校に入学 したものの、楽しい生活を送ってはいなかった。教師は皆、日本の進学熱の「東大が頂点」というピラミッドの価値感で生徒に受験勉強を迫り、女の子でも非常 に優秀な生徒はそれを当然のことのように受け止めていたようである。その一方で、「然るべき家に嫁ぐ」のが賢い女の行き方という名古屋的価値観を受け入れ ていた女子生徒は、女子大に入ればそれでいいと、受験勉強は適当に、おしゃれをして、他校の男の子とデートするなど、私から見れば、青春をとても謳歌して いるように見えた。そのどちらにも属すことのできない私は、高校時代、本当に暗い気分でいた。それは、両親や教師(=日本の伝統的価値観)の強いて来る 「良妻賢母」という価値観への強い反発、なぜ女性は「妻」「母」になるためだけに生きなければいけないのか、女は「人間」としては生きられないのかとい う、深い疑問からくるものだった。

荒野の呼び声
そんな高校生活も半ば、「バックは新聞を読まなかった」3)という有名な一節から始まる、ジャック・ロンドンの小説「荒野の呼び声」に私が初めて出会っ たのは、高校2年の夏だった。当時、英語ももちろん苦手、成績も低空飛行で、受験勉強から目を逸らすために、毎日テニスに明け暮れていた、何か鬱々とした 気分の思春期。英語の教師が私たちの夏休みの副読本として推薦してくれた一冊の本、それが「The Call of the Wild(荒野の呼び声)」2)だった。しかし、英語の苦手な自分が英語の本を読みきるなどということは端から頭になく、その本はずっと机の片隅に放って おかれたままだった。そして、両親の心配と叱責と干渉(「受験勉強も全くせず、年頃の女の子が真っ黒になってテニスばっかりとは一体何を考えている」「女 の子が色が黒くなってはお嫁の貰い手がなくなる」という非難)を無視し、夏休みも毎日朝早くから、テニスの試合と合宿に出かけていた夏休みも終わりに近づ いたある晩、ふと「そろそろ読んでおかないと」と、その本を手にとった途端、そこには私には想像を超えるアラスカからカナダへと、壮大な自然と未知の世界 で生き抜いていくそり犬バックの過酷な人生が広がっていた。思わず息を呑み、ぐいぐい惹きつけられ、英語嫌いの私が夜通し、読み続けた本。
私はその頃から、自分の深い内部に眠る「野生の呼び声」のささやきをいつも聞いていたような気がする。
-その2につづく-

参考文献:
1)吉屋信子「底のぬけた柄杓-憂愁の俳人たち-」所収、『私の見なかった人 杉田久女』、朝日新聞社、昭和54年
2)Jack London, “ The Call of the Wild, White Fang & To Build a Fire”, The Modern Book, New York, 1998  註:高校時代に読んだこの「The Call of the Wild(荒野の呼び声)」がどこの出版社からの版だっだのか、今記憶は定かではないので、この版を紹介する。
3)ジャック・ロンドン著(海保眞夫訳)、「荒野の呼び声」、岩波文庫、1997  註:この岩波文庫版は、残念ながら、今絶版になっている。

 

 

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