自分の思い違いで、長兵衛の娘お久が吉原へ身を売ってこしらえた五十両を長兵衛の善意で受け取った文七は店の主人と必死になって長兵衛の住む長屋をつきとめた。文七が世をはかなんで川に身を投げようとした翌日だった。
その吾妻橋を渡りながら主人が云う。「きのうお前は、この橋から身を投げようとした。今頃はあの世へ行っている時分だ。その親方のご恩と云うのは並大抵のものじゃ無いよ…。忘れたら済まない」

長兵衛の家の前に立つと、今まさにカミさんと長兵衛のケンカの真際中だった。
「気ちがいにもなるじゃないかヨ娘が自分の身を売って、あたしらのためにこしらえてくれたお金だヨ!その金をどうしたんだい
さあ、ここへ出せ!出しやがれ!どこへ預けたんだいその金は!!」

「だから吾妻橋から、どっかの若いもんが飛び込んで死ぬってえから、やったんだい!」
「何云ってんだい。ウソつきゃあがれ!お前さんは身投げを助ける人じゃないヨ身投げの足を持つて抛り投げる人だ!」
「何だと抛りなげるだと!!」

長兵衛さんのお宅はこちらでしょうか?戸を開けようとする文七の主人に長兵衛が怒鳴る。「開けちゃイケネエ、今開けると張り倒すぞ!」
カミさんが風呂敷を腰に巻いているだけで尻が丸出しなのだ。
ようやく戸を開けて、文七の主人が事情を話して文七を会わせる。「アッおメエか!よく来てくれた。きのうおメエに金やって助けてやったな!ザマアミロってんだ」長兵衛、使い込みの疑いは晴れた。

「なんだって?金は盗られたんじゃなくて碁盤の下へ忘れた!?こんな野郎を使いに出しちゃダメだヨ。とんでもネエことが始まっちゃうじゃネエか!何、金を返すだと?もうイイヨ、イラネエヨ。だって江戸っ子が一旦やった金をそうですかって返して貰うなんてそんな事できるかヨ。イラネエヨ!イラネエ、イラ…」
この辺りの長兵衛の言葉は当時の見栄っぱりな江戸職人の気質がよく表れている。
しかし背に腹は変えられず長兵衛は、じゃあ貰っとくヨ…と照れ乍ら五十両を受取った。

文七の主人が遊廊からお久を身請けして長兵衛に戻した。
「親方のような清いお心の方とぜひ親類にして欲しい。ついてはこの文七は真面目で商売には見込みがある男。文七の命の親である親方の子にしてやって下さい」
親の無い文七は長兵衛の養子となる。
「いろんなものができちゃったネエ…親類だの子ができたりして…」
文七とお久を夫婦にして江戸・麹町六丁目へ小間物屋を出し大層繁昌したと云う。
人情噺「文七元結」の一席である。

おそらく、この人情噺「文七元結」は江戸時代の作家による戯曲が基になっていると思う。
しかし、この噺に脈々と流れている《同じ時代を生きている人間》への極めて強い、いつくしみの心が感じられ、それが聴く人の感動を呼び起こす。

明日をも知れない己の家庭を顧みずに云う長兵衛の言葉。
「俺だってこの金をやりたくネエ。だけどおメエは死ぬって云うからやるんだ…。俺んとこは死ぬんじゃネエんだ…」
この言葉に作者の万感がこめられている。
云ってみれば自分を犠牲にしても身近な人を救けようとする気持であり、人が感動するのは、この犠牲的精神に対して胸を打たれるからなのだろう。

自分の国さえ良ければイイ。自分の身内さえ良ければイイ。利益優先の今の世の中に「感動」を見つけるのは極めて難しい。
人情が地に墜ちた…と云われてから久しい。
文七のように橋から身を投げないまでも、今の世間には死にそうな人は沢山いる。

いくら税金を収めても身を削るようにして寄付をしても、ボランティア活動に庶民が力をそそいでもそう云う人達は一向になくならないばかりか増える一方だ。

かつて地球は、もっとバランスのとれた住みよい星だった筈なのに、それを一番享受できる人間が寄ってたかって、複雑にして壊してしまった。環境も然り。
少し前までは、例えそれが他人であっても身近かに苦しんでいる人がいれば人はもっともっと手をさしのべる気持の余裕があった。

悪いことをした他人の子供を本気で叱っている老人もいた。
でも今はそんな事をすれば馬鹿な親から睨まれるのが関の山だ。

煎じつめれば人の世の中に、「連帯」と云う意識が、かなり薄らいできたからだと思う。
みんなが「個」を目指している。あるいは自分の家族、自分の会社が先ず有利になることを考えれば当然の帰結だと思う。
競争社会では仕方のないことなのは承知しているものの、世の中のヒズミも又、益々大きくなってゆく。
一体どうしたらもう少し穏やかで暮らしやすい世の中になるのか見当もつかない時代になってきた。
「真心」とか「誠意」と云う言葉がバカに懐かしく聞こえて仕方がない。    

今回でこの、つたない随想を終わらせて頂きます。お読み下さった方、長い間のおつき合い有難うございました。又、いつの日か――。

いとういさを

****
編集部より
2010年4月第19章より45章に渡り連載して参りました「随想・遠い潮騒」は今回が最終回です。
絵の創作の合間をぬってお時間を作って執筆をして下さった、いとういさをさんに心より感謝致します。

 

2010年11月25日号(#48)にて掲載

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。