<前回から続く>
東京・神田鍛冶町の日本蕎麦屋S庵。私の大好きな店ではあったが別名「ケンカ蕎麦」
その名前の由来はスグ解った。調理場で腕をふるうご主人と客の応対担当の大柄な奥さんとの間で、ケンカが絶えない。

尤も調理場に飛び込んで旦那に早口でまくし立てる奥さんの速射砲のような声は客に届くものの、旦那の声は聴こえてこない。形勢が不利なのか。
チャッチャッチャッと蕎麦の水を切る音はきこえるが、旦那は音無しの構えである。

その奥さんが、調理場と客室の間の暖簾を分けて、蕎麦のドンブリを持って現れると急に愛想のよいニコニコ顔に変わる。
旦那は頭を五分刈りにした見るからに蕎麦職人。二人共年は三十台半ばだった。
奥さんが暖簾をくぐって旦那のいる調理場に入ったとたんに又彼女の速射砲が発射される。

隣の居酒屋Eのオヤジが云うには彼等は子供が無くてケンカの元は、旦那の浮気が発覚したからだそうだ。
狭い店内のおなじみの客は又始まった…と云う顔で結構ニヤニヤ楽しんでいる様子だった。

私の仕事場と近くて道を歩いていて時々割烹着を着てネギなどがのぞいている買物カゴを持ったこの奥さんと会う。
その時の彼女は、とても速射砲の射手とは思えない程の恥じらいの表情になりポッと色白の頬を赤く染めて、私に微笑む。初な乙女のようだった。

この蕎麦屋と焼鳥屋にはさまれた間口一間半の店が鮮魚を食べさせる居酒屋のEだった。
主人はやはり私と同年代。確か岐阜の出身でメガネをかけた一見、気むずかしそうなタイプ。

私の仕事場があるFビルを出るとこの店の看板が見えた。間口がせまいから、客は入口から奥に伸びる一本のカウンターに座る。やはり店主一人だけの店。
ある日の夕方、私は初めてこの店に入った。客は一人もいなくて、店主一人だった。彼がうなるような低い声でラッシャイ…と云った。何となくやりにくそうだな…と思った。

夏の終り頃で蒸し暑い日だった。イヤー暑いネ!と云ったら店主が包丁を研ぎながら「夏は暑いんだヨ、フッフッフッ」と云う。
カウンターのイスに腰かけて冷蔵ケースに沢山入った魚をみながら「何か旨い魚たべさせてヨ…」と云ったら「ウチのはみんな旨いヨ」と云う。
毎朝一人で築地の魚河岸へ仕入れにゆくそうで、確かに魚は新鮮そう。アジなどはナイフのようにギラギラ輝いていた。

俺はこの向いのビルで仕事しているんだヨ…と私が云ったあたりから店主の顔がほぐれてきた。
注文したマグロの刺身を造りながら、彼が「呼び込みも大変だろうフッフッフッ」と云う。黒い背広を着ていたのでFビル一階にあるキャバレーの客引きだと思ったらしい。そうか図案屋さんかあ…。こんな出会いだったが確かに新しい魚の刺身は威張るだけあって酒が進んだ。

七、八回店に足を運んだら同じ町に住む親近感で大分うちとけてきた。
元より酒好きの男で冗談を交わすようになった頃、ある日の夕方この店主から電話があってイイ話があるから今日店に来いと云う。聴けば、ひとつき二百円で喰ってゆける方法がある…と云う。それを教えると云う。

その日の仕事を、そこそこ片付けてEに行った。客は一人もいなかった。
ビールを一口飲んで、何だいさっきの二百円で喰ってける方法って…と聴いた。
どうせロクな話ではないとは思っていたが「トコロテンだよ、トコロテンは一突き二百円だヨ今!」とほざく。

アノネエ俺はヒマじゃ無いんだヨ!頼むヨほんとに!
聴けば今日は週の中で一番ヒマな日なんだと云う。淋しいから私をサクラとして呼んだらしい。

酔ってきた時に必ず彼の口から出てくる持論があった。「世の中すべて運・鈍・根」だと云う。何だいそりゃあ大根の入ったウドンか?意味が分からなかった。

「要するにだな…人は運が巡ってくるまで根気よく、あわてず鈍重に待つの…それしか無いの」

この持論が始まると中々終わらなかった。これが始まる頃は勘定はどうでもよくなって、酒は只になる。唯、この運・鈍・根の話になると長くて聴くのも大変。耳にタコができた。
しまいには飲む前に今日は運・鈍・根は無しだヨと云ったりした。
あれから三十五年も経ってしまった。次の仕事場を築地に持ってから、一度も神田鍛冶町に足を運んでいない。
仕事が息もつけないような忙しい時代になったからだった。

サンシャイン・コーストの小島に住む今、フト風に乗った神田囃子がきこえたような気がして耳を澄ます。ケンカ蕎麦、シソ巻きの焼鳥、そして運・鈍・根の居酒屋。三軒共、もう多分店は…。
それを認めるのが嫌で神田鍛冶町には近づかない。

 

2010年10月7日号(#41)にて掲載

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