人口300万人の内、その10分の1が中国人。日本人も少数民族とは云え3万人が住んでいるバンクーバーでは、東洋野菜を手に入れることに苦労をしなかった。日本人が経営する日本食の食材店にゆけば、日本で買う値段をはるかに越えて2倍もする品物があるものの、まず手に入らない食材はない。

2003年にバンクーバーを離れ、サンシャインコーストを60キロ北上した当地ペンダーハーバーに移り住んでからは、東洋野菜とりわけ日本料理に欠かせない食材の入手が極めて困難になった。日本を離れて15年目のことだった。無理もない話で、東洋人がほとんどいないこの土地だから、唯一のスーパーマーケットに足を運んでも、ネギに似て非なるものリーク、赤ん坊の頭ほどある皮のかたいナス。棍棒のようなキュウリ(イングリッシュ キューカンバ)は歯ざわりが全く日本のキュウリと異なり、大根は辛うじて数本並んでいるもののはじめから水々しさもなく、ひね大根と呼びたくなる程のものしかない。

サラダにする青菜はあるものの、炒めたり鍋に入れるようなものは少なく、ましてや暑い時に日本人なら、どうしても欲しくなるシソやミョウガの類いは鐘や太鼓で探してもあろう筈がなかった。 
50才まで日本に住んで日本食を味わい続け、バンクーバーに移り住んでからも恐らくバンクーバー郊外で中国人の手によって造られたと思われる東洋野菜や日本野菜の恩恵にあずかり続けた。そんな自分にとって予想されたこととは云えこの地の野菜事情は一種のパニックだった。

私は云わずもがなの日本食大好き人間である。勿論日本料理を見よう見まねで作ることも大好き。日本で生活した頃は、酒を飲みに行けば必ずと云って良いくらいカウンターの前に座り込んで板前の包丁さばきや手さばきを上目づかいに見ながら酒を飲んだ。長い酒とのツキ合いの中でうまい日本料理との出合いは数知れず舌鼓を打ちながら板前にコツを聴きだし、頭の中の料理の抽出しにしまい込んだ。外地に住むことになるなんて予想もしていない頃のことである。

そんな日本料理大好き人間が、自分の勝手とは云え日本食の食材が極めて入手困難な土地に住むことになったからと云って「あ、そうですか」と急に方向の転換はできないのである。

誇りに近いほどの日本料理への愛着がある。試しに2、3日続けて洋食もどきの食事をすればとたんに胃がおかしくなり身体が不調を訴える。特に緑の野菜が少ない料理はテキメンで、もうこうなったら、自分の手で日本の野菜を造るしかない!と云う結論に達したのが2004年の春のことである。

どんな日本料理にも野菜はツキ物。せめて全部とは云わないまでも普段の料理に欠かせない野菜から始めようと日本に行った折に種を買ってくる。私は無類の麺好きなので、まず薬味としてのネギはどうしても欠かせない。白菜、小松菜、キュウリ、トマト、二十日大根、シソ、三ッ葉それにそら豆、インゲン、サヤエンドウと種を買いだしたら切りがない。今更乍ら日本野菜の種類の多さに驚くばかりだった。

2004年の春。それまで畑の「ハ」の字も知らなかった人間がショベルやクワを買い込んで、わずか10坪そこそこの畑造りの場所にたった。長靴をはき、朝日をあびた俄か百姓は凛々しくもあり、又一種悲壮でもあった。「欲しがりません勝つまでは」そんな言葉を胸で呟きながら、ショベルに足をかけグッと力を入れて踏み込む。しかし、ショベルが簡単に土に入らない。予想した通りの荒れ地なのである。挙大の石がゴロゴロ出てくる。樹木の根がいたるところに張りめぐらされ、10センチも掘るとサラサラに乾燥した砂のような土になる。かと思えば、ある部分はレンガを砕いたような赤土である。
トップソイル(表土)と云う黒い良質の土を大量に買い畑の表面に15センチ程の厚みに敷きつめる。くじけそうになる気持をひたすら支えてくれるのは実った時の野菜をふんだんに使った日本料理のイメージを頭に思い描くことに加えて、当地に住み続けてたくさんある自然の姿をキャンバスに描くことだった。

苦斗一週間。教えられた通り昨年積み上げておいた落葉をすき込み、ようやく畑らしいものが出来上った。日本の畑を思いだしながら畝も造ったが畝と云えば畝だし、凹凸な地面と云えばそうも見えるような畑だった。それまで太いものと云えばせいぜいスリコギを持つ位だった掌はマメが潰れて見るも無惨な有様だった。身体中の筋肉が痛くて数日ボーッとして過ごした。とても絵は描けない。

待望の種を撒いた。撒いた種はそら豆、白菜、大根、インゲン、キュウリ、サヤエンドウそれにネギ。祈るような気持だった。こんなイイ加減な畑に野菜が育ってくれるのか。半信半疑だったが一週間後撒いた種の半分が発芽した。信じられないような自然のたくましさを見た思いである。

しかし、芽が出てもいつの間にか消えてしまうものがある。特に柔らかい葉の野菜にそんなことが多くてよくよく確かめたら、大ナメクジの仕業だった。ある朝畑に出てみたら、伸びかけている新芽にピッタリ抱きついて葉をかじっている15センチもある大ナメクジを発見。夜の間に出てきてやわらかい野菜にとりついて次々と食べてゆく。中には20センチもある大物もいて、畑の廻りに家路を急ぐナメクジ軍団が10数匹。ツヤツヤと黒光りして同じ方向を向いている。背筋が寒くなるような光景だった。

白菜などは、かなり立派に20株も育ったのに、いよいよ収穫と云う頃には、このナメクジ部隊に見事にやられ、ボロ布のようになってしまう。イマイマしかった。ネギは京都の九条ネギの種を撒いたものの、気温との折り合いがつかず、猫のヒゲのような細い新芽が沢山出て、シメシメと手をたたいていたら、これもやがて溶けるように消えてしまった。春先のカナダ太平洋岸の夜気は0度を切ることもある。

朝晩水を遣り、途中で肥料を施したのに、何とか食べられるまでに育ったのは、サヤエンドウ、そら豆それに朝鮮ニンジンのように三ツ又四ツ又になった 貧相な大根だけ。2004年の俄か百姓は、ほぼ完敗で絶望感に打ちひしがれながら2005年の春を待った。
「欲しがりません勝つまでは」

(続く)

 

2007年3月22日号(#12)にて掲載

 

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